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アンチエロティシズム ─谷崎潤一郎 Seibun Satow 「もっとも大きな快楽は、他人を楽しませることである」。 ラ・ブリュイエール『人さまざま』 「うんこ びちびち しっこ じょんじょん 青っぱな じゅるじゅる」。 吾妻ひでお『ちびママちゃん』 「新しい世界構想──世界は存立している。世界は、なんら生成せず、なんら経過しないものである。ないしは、むしろこう言いえよう、世界は生成し、世界は経過しはするが、しかし世界は、けっして生成しはじめたこともなければ、けっして経過しおわったこともない、──世界はいずれの場合にもおのれを保存すると……世界はおのれ自身で生きる、その糞尿がその栄養なのである」。 フリードリヒ・ニーチェ『権力への意志』 * 文学における性の問題は最も関心を惹くものの一つである。この主題のために、谷崎潤一郎の作品を選択することに、いささかも躊躇しないだろう。日本語を用いる作家として、谷崎は、国内外ともに、最も論じられることが多い。けれども、谷崎=マゾヒズムという図式は一般的にもかなり広く流布し、最も伝統的なテーマであるため、マゾヒズムの観点に立って読解することは、最近では、あえて避けられている。だが、これまでマゾヒストの方面からの読解者たちは、マゾヒズムだけに限定されない新たな谷崎像を構築するという主張者と同様に、マゾヒズムに関する理解が十分ではない。サディズムはわかりやすいが、自傷行為がマゾヒズムに属さないように、それを理解することは難しい。サディズムを描いた作品は数多いのに、マゾヒズムは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが影響を受けたレオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホや谷崎の作品以外に、見あたらない。 アンディ・ウォーホルの描いたバナナのジャケットで知られる『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』において、リーダーのルー・リードは、同時代のヒッピーとは違い、ドラッグ・カルチャーを東洋思想と結びつけるのではなく、ゲイやサディズム、マゾヒズムによって展開することで、裏道のリアリズムを獲得していた。しかし、それは、商業的には、ルー・リード自身が「五年早すぎた」と呟く結果となる。 Shiny, shiny, shiny boots of leather Whiplash girlchild
in the dark Comes in bells, your servant, don't
forsake him Strike, dear mistress, and cure his heart Downy sins of streetlight fancies Chase the costumes she shall wear Ermine furs adorn the imperious Severin, Severin
awaits you there I am tired, I am weary I could sleep for a thousand years A thousand dreams that would awake me Different colors made of tears Kiss the boot of shiny, shiny leather Shiny leather in the dark Tongue of thongs, the belt that does
await you Strike, dear mistress, and cure his heart Severin, Severin,
speak so slightly Severin, down on your bended knee Taste the whip, in love not given lightly Taste the whip, now plead for me I am tired, I am weary I could sleep for a thousand years A thousand dreams that would awake me Different colors made of tears Shiny, shiny, shiny boots of leather Whiplash girlchild
in the dark Severin, your servant comes in bells, please
don't forsake him Strike, dear mistress, and cure his heart
(The Velvet Underground & Nico
"Venus In Furs") マゾヒズムを回避しては、谷崎から遠ざかり、その謎に深くとらわれる。谷崎の作品の素材は決して奇異でも、変態でも、異常でもない。サディストとマゾヒストが根本的に異質であるのは、性風俗に関するマニアックな定期刊行物に軽く目を通しただけでも、おぼろげながら、認知できる。 日本では、マニア誌はSMから始まり、その後、S向きとM傾向などさまざまな領域に細分化されていった経緯がある。一九九二年の段階で、たいていのマニア誌はせいぜい二、三年しか続かないのに比べて、スワッピングなどを含んだ男女交際や同性愛と並んで、SM系雑誌は、そのため、息が長い。『SMスナイパー』や『SMマニア』など一〇年以上続いている雑誌も少なくないし、中には、戦前の雑誌の流れを汲むものまでもある。雑誌ではなく、あくまで通信であるマニア誌は広範囲に渡り、極めて専門化されていることから、それぞれに微妙な差異があって、分類化が困難である。例えば、ボンテージ系の雑誌はSMに属しているが、ビザール系の雑誌はSMに分類されない。また、フット・フェティシズム系の雑誌も拘り方に、男を踏みつけている足やミニスカートから出ている足などのように、デリケートな差異があり、互いに固定読者をつかんでいる。しかも、男を踏みつけている足に拘るフット・フェティシズム系といわゆるM男系の雑誌の間では、カメラのアングルからまったく違っており、別の領域として扱われている。今日のマニア本の細分化はこの程度でとどまらない。女性のうなじに関する写真や文だけで構成されている定期刊行物もあるし、また、医療プレイ・マニア系の雑誌は、ほとんどが医療器具の使用法の専門的な解説などに費やされ、写真はそれを補助するために用いられているだけで全体の一割にすぎず、吉田照美が少年のころことのほか好きだったお医者さんごっこの域を超えているということをわれわれはつけ加えておく必要があるだろう。 なお、こうした雑誌の役割はインディーズ系のAV、さらにサイバー・スペースにおけるマニアックなサイトへと九〇年代を通じてシフトしていった。 われわれも少々女性の尖った顎に対するフェティシズムを感ずることがある通り、ローラン・ヴィルヌーヴの『フェティシズムの博物館』によれば、「フェティシズム(Fetishism)」が性器に向けられることは稀で、そこ以外の部分への執着として顕在化し、それを通じて、性器的なものを想像していく。「フェティシュ(Fetush)」はポルトガル語の「魔術」に由来し、プリミティヴな社会での石や木像などの物的な崇拝対象から転じ、訳語として「物神」が用いられる。フェティシズムは、もともとは、シャルル・ド・ブロスが一七六〇年に発表した『物神崇拝』の中で使用したことから、流布し、オーギュスト・コントが多神教を総括する用語として使った。フェティシズムは、マルクスが『資本論』で「貨幣退蔵者」、すなわち守銭奴について指摘しているように、この交換可能性に対する固執である。貨幣は、ふりかえって見ると、人生における最大の不安の一つだ。 カール・マルクスは、『資本論』において、貨幣退蔵者について次のように述べている。 金を貨幣として、したがって貨幣退蔵の構成分子として固定させるためには、流通することや、または購買手段として、享楽手段になってしまうことを、妨げなければならない。それゆえに、貨幣退蔵者は、黄金神のために自分の肉欲を犠牲にする。彼は禁欲の福音に忠実である。他方において、彼が流通から貨幣を引上げることのできるものは、彼が商品として流通に投じたものだけである。彼は生産するほど、多くを売ることができる。したがって、勤勉と節約と吝嗇はその主徳をなしている。多く売って少なく買うということが、彼の経済学のすべてである。 フェティシズムとは「客体のひそかな擬人化、人間化、あるいは客体の活性化と同じことだと言ってもいいだろう」(ヴィクトル・フォン・ゲープザッテル『フェティシズムの現象学』)。対象を媒介ではなく、自己目的とすることがフェティシズムである。フェティシストは他者から逃走する。フェティシストは性器には無欲であるが、これは天国のために現世に無欲であるという宗教的な倒錯した意識のヴァリエーションであろう。フェティシズムはイデアへのエロスであり、プラトニズムの一種である。 だが、谷崎においては、このプラトニズムはフェティシズムにとどまらず、マゾヒズムにより転倒されることになる。マゾヒズムはイデアへのエロスではない。それはイデアによって踏みつけられることに快感を覚えるものであり、そこには転倒されたプラトニズムの側面がある。マゾヒズムはプラトニズムの倒錯を拒否するのではなく、それを意識化して、パロディ化する。マゾヒズムはプラトニズムとヘブライズム、その融合のヘーゲル主義の批判を含んでいる。 性は、宗教・政治・経済として、考えなければならない。性行動を、社会学や心理学によって、とらえることは不可能である。いわゆる異常性愛を含めたすべての性行動は、宗教・政治・経済の思想によって、われわれは自信を持って主張するし、いずれ実証してみせるつもりだが、完璧に把握することができる。谷崎はそれを理解していた数少ない作家である。 マニア雑誌のフィールド・ワークを試みて、われわれは次のような結果を得ている。編集スタッフが一方の性か全体の六〇%を上回っていると、その雑誌が刺々しくなるが、それぞれの性の量的比率・地位がバランスのいい雑誌ほどユーモラスになり、できがよくなる。ノルウェーでは、すべての職場において、一方の性は全体の四〇%以下となってはならないというクォータ制が完備されている。マニア誌の場合の「性」は女性と男性のみを意味しないのであり、マニア誌はクォータ制の理想が実現している。 谷崎の作品をめぐって数多くの考察が試みられているが、それらは谷崎を読みたくなるようにさせてくれない。なるほど彼らは繊細な読みや手間隙をかけた資料を提供してくれることもあるし、文学の研究者としての関心を満足させ、学会を開催するにはふさわしいけれども、ほとんどが見当はずれと言わざるを得ない。 ジクムント・フロイトは、『マゾヒズムの経済論的問題』において、マゾヒズムの問題を理解することの困難さを次のように吐露している。 人間の欲動生活においてマゾヒズム的な傾向が存在することは、経済論的には謎に満ちたものと言える。快感原則が不快の回避と快の獲得を第一の目標としながら心時なプロセスを支配していると考えると、マゾヒズムはそもそも不可解な営みなのである。苦痛と不快がもはや警告ではなく、みずから目標となりうるならば、快感原則は麻痺し、われわれの精神生活の番人も、麻酔にかけられてしまうことになるからである。 マゾヒズムの対立物であるサディズムとは異なり、マゾヒズムは精神分析の理論にとって大きな驚異となるものである。われわれは快感原則を、人間の心的な生だけでなく、人間の生命全体の番人と呼びたいと考える。すると、すでに区別した二つの種類の欲動、すなわち死の欲動とエロス的な(リビドー的な)生の欲動と、この快感原則の関係を検討する必要が生じてくる。そしてこの問題を解決するまでは、マゾヒズムの問題の検討をさらに進めることはできないのである。 マゾヒズムは、サディズムに比べて、理解することが非常に難しい。このほかにも、フロイトは、『子供が叩かれる』や『性に関する三つの論文』といった作品の中で、マゾヒズムを論じている。しかし、マゾヒズムほど「死の欲動」から遠いものはないのであって、彼のマゾヒズム理論をそのまま採用することはできない。いわゆる倒錯性愛解説には絶対的な強みを発揮するわれわれが後で詳しく言及するが、それを再構築しなければならないと考えている。 代表的サディストである三島由紀夫は、『谷崎潤一郎論』において、谷崎の文学について次のように評価している。 究理的で献身的なサディストである代わりにわがままで意地悪なマゾヒストであることを、自分の文学的主題とした谷崎氏は、理論的には小説としてもっとも描きにくいこの主題を、逆用してもっとも有利な武器にしたのであった。現実を変要させて、自分の好むがままの形を現実にとらせ、そこへ自分の内面を投射して(自分は何の責任も問われずに)、対象をわがままで意地悪な存在だと夢みること。このエゴイスティックな没我と陶酔の一筋道を、氏はわき目もふらずに歩みつづけた。それは文学における反批評的なものの極致である。(略) 谷崎氏にとって、究理的な人々にとってはあれほど困難な美は、いとも容易な問題だった。美を実現するには、現実を変容させればそれでいいのだ。そしていったん美が実現されたら、その前に拝聴して、その足を押しいただけばよいのだ。その上、さらに微妙な、さらに狡猾なメカニズムがこれに加わる。すなわち美に現実性を与えるためには、人形師が自ら作った人形にわが息を吹き込んで生命を与えるように、その美に対して自分の「わがままと意地悪」を賦与すればよいのであるが、同時に、相手のものとなった「わがままと意地悪」が、正にその属性に従って、相手から自分を遠ざけ、焦燥と錯乱をもたらし、かくて美にとって一等大切な要素である「不可測な距離」をも確保させることになるのである。 (略)青年時代の氏は世紀末思潮や、キリスト教的道徳観の二元論や、いろんなものにわずらわされて、美の客体としての攻撃的な女体と、美の創造者としての被虐的な主体とを、正当に拮抗させるだけの状況を発見しえなかった。谷崎文学がいつも一面、状況の文学の性質を帯びるのは、主題の模索の代わりに状況の模索が、つねに制作の緊張を支えてきたからである。主題はむしろ容易であり、最初に発見されており、模索の必要はなかった。問題は状況の設定であり、夢がつぎつぎとその状況をむしばんで、完璧な状況の実現の彼方に置くのであった。そしてすべてのエロティシズムは、かかる状況の不可能にかかっているのではなかろうか? 芸術のエロティシズムに対する最終的な勝利は、状況の創造にあるのではなかろうか? 三島の谷崎の文学に対する読解は、ほかの彼の批評と同じように、対象以上に、自身の作品を照らし出している。三島によれば、谷崎の文学は登場人物と「状況」が違うだけで、『卍』にしても、『蓼喰う虫』にしても、『細雪』にしても、ほとんど同じような形式や構造を持っている。三島は、マゾヒストの谷崎と逆に、サディズムにおいて「エロティシズム」を覚えるが、その様態は同じなのだ。現実を書くのではなく、現実を作品において思うがままに変容させ、現実を叩きのめす。ただ違うのは、三島がサディストであるため、「主題」小説を書くのに対し、マゾヒスト谷崎は「状況」小説を書くということだけである。 だが、三島の見解が誤謬であるのは、マルキ・ド・サドと谷崎の作品とを読み比べればわかることである。 そのサドは、『悪徳の栄え』において、「十六通りのさまざまな方法で、縛られた十六人の娘」を殺し、その死骸を昼食用に「料理」して食べるロシア人ミンスキーの口を通じて、次のように述べている。 そもそも女というものは、自然がわれわれ男の必要と快楽を満足させるために与えた家畜ではないかね? われわれの家畜飼育場の牝鶏より以上に、彼女たちがわれわれの尊敬を受けねばならぬという、どんな権利があるのだね? この二つのあいだに見られる唯一の違いは、家畜というものが従順なおとなしい性格によって、なんらかの意味でわれわれの寛容なあしらいを受けるに値するのに対し、女は許術、悪意、裏切り、不実といった永遠に根治しない性質によって、過酷と乱暴なあしらいしか受けるに値しない、ということではないかね? サドの作品の主人公たちは対象を侮辱、凌辱、虐待、暴行し、さらに、調理して食べる。それがサディズムであり、エロティシズムなのだ。動物には倒錯やフェティシズムがありえないから、「エロティシズムは、とらえられた影像が興奮した人間にとってはもののきわだった明瞭さをもって超脱していく点で動物の性欲とは異なる」(バタイユ『エロティシズム』)。だが、フェティシズムは交換に基づいており、それは人間が交換する動物だということを強調する。エロティシズムの理論は聖と俗の二項対立の入れ替えを説いているにすぎないのだ。エロティシズムはアイロニー、性の抑圧に対する素朴なアンチテーゼなのである。「売春婦の堕落」には、バタイユによると、「人間生活は善であるから、堕落を受け入れることには、善に唾を吐きかけ、人間生活に唾を吐きかける決心が見られるのである」。サドの主人公たちは既存の道徳に対する敵意と憎悪を悪魔的な享楽に身を任せることによって露わにする。しかし、サドはただ既存の道徳が虚偽だと主張するにすぎず、トーテミズムにつらなるような彼の批判はその枠組みを強化しているのであって、それは、キリスト教道徳と同様、世俗的なものから離れている。 Too Much Blood I want to dance, I want to sing I want to bust up everything To make some love I want to dance, I want to sing I want to bust up everything And make some love I can feel it in the air Feel it up above Feel the tension everywhere There is too much blood Too much blood, well alright Everything you see On the movie screen is tame Everything's gonna
be arranged A friend of mine was this Japanese. He
had a girlfriend in I want to dance, I want to sing I want to bust up everything Be number one, yeah I want to dance, I want to sing I want to bust up everything And have some fun I can feel it everywhere Feel it up above Feel the tension in the air There is too much blood, too much blood Too much, yeah too much blood, alright Did you ever see 'Texas Chain Saw Massacre'?
Horrible, wasn't it? You know people ask me: it is really true where you live
in Yeah! I want to dance, I want to sing I want to bust up everything And have some fun I want to dance, I want to sing I want to bust up everything And make some love I can feel it everywhere Feel it up above Feel the tension in the air There is too much blood, too much blood Oh yeah Pretty ladies, don't be scared Pretty ladies, don't be scared Pretty ladies, don't be scared Pretty ladies, don't be scared Pretty ladies, don't despair There's still so much love Pretty ladies, don't despair Too much, too much, yeah Too much blood, too much blood Too much too much blood, too much blood Too much blood, too much blood... (The Rolling Stones "Too Much Blood") バタイユによれば、エロティシズムという「欲望の暴力」は、人間社会が存続するための条件である「労働の世界」と対立しているので、隠蔽される。「最も遠い時代から、労働は一種の緩和作用を引き入れ、そのおかげで、人間は欲望の暴力が命ずる直接的衝動に応ずることをやめたのである。(略)それ故、一部分を労働に捧げている人間集団は禁止において決定的なものとなった。禁止かなければ人間集団は、その本領である労働の世界にはならなかっただろう」。生の本質は「理性」や「意識」、「労働」の「外に」ある「過剰」な「生の浪費性」である。エロティシズムは「性の衝動」とは異なり、タブーを「乗り越え」て、その本質に触れることを目的とし、究極的には、「死の不安の乗り越え」こそがその本質である。「聖」なる世界がタブーを持つのは「労働の世界」の秩序を乱すからだ。死は「不安」の源泉であるが、エロティシズムでは、「連続性」を暗示する「聖なる領域」に置かれている。「死の不安は人類の本質をなすものと思える。死の不安だけではなく、乗り越えられた死の不安、死の不安の乗り越えがそうなのだ。生はその本質において過剰であり、それが生の浪費性である。生は限りなくその力と知力を吸い尽くす。そして限りなく、それが創造したものを消滅させる。大多数の生者はこの作用には消極的である。極限においてはしかしなから、われわれは生を危険にさらすことを断固として望んでいるのだ」。それゆえ、「誰一人性行為の醜さを疑わないものはいない。犠牲の中の死と同様に性交の醜さは死の不安を呼ぶ。しかし、その死の不安が一そう大きくなれば(略)制限を乗り越える意識は一そう強く、それが熱狂的な喜びを決定的なものにする」。性交の「問題はこの顔の、その美の神聖をけがすことである」。「男にとって女の醜さよりもいき粗相させるものはない。それによって器官の醜さも、性行為の醜さも際立たなくなるからである」。秘匿され、禁止されたものは聖なるものであり、そうした「肉体」を恥ずかしめ、犯すことによって、エロティックな幻想を高める。 バタイユは、『エロティシズム』において、人間が「連続性への郷愁をもっている」と次のように述べている。 私たちは非連続の存在であり、理解できない運命の中に孤独に死んで行く個体であるが、しかし失われた連続性への郷愁をもっているのだ。私たちは、偶然の個体性、死ぬべき個体性に釘づけされているという、私たち人間の置かれている立場に耐えられないのである。この死ぬべき個体の持続に不安にみちた望みを抱くと同時に、私たちは、私たちすべてをふたたび存在に結びつける。最初の連続性への強迫観念をも有している。 バタイユの「連続性」の概念はユングの集合的無意識に隣接している。エロティシズムの理論家は、貨幣の問題を軽視した人類学的考察によって、性の問題の基礎づけを普遍化しようとする。バタイユは、『エロティシズム』の中で、マルセル・モースやレヴィ=ストロースの理論に、批判をまじえつつ、言及している。エロティシズムは唯一神教によって抑圧された多神教の回復というわけだ。しかし、それは依然として認識論的枠組みにあり、彼らの主張も、また、性を抑圧し、隠蔽している。ユング的=バタイユ的思考は対偶しか真でない条件命題の裏も逆も真だと言いくるめるようなものだ。 谷崎の『鍵』のテーマはこの「死の不安の乗り越え」と同一視されている。初老の大学教授と妻郁子は互いの日記を盗み読んでいる。夫は妻に若い木村を近づけ、彼女に眠っている性的歓喜を覚醒させる。郁子は木村によって性的喜びを見出し、夫を嫌悪するようになるが、夫は逆に妻に魅了されてその極限にのぼりつめ、卒中を起こし死んでしまう。だが、サディストが相手の同意などまったく不要であるのに対して、マゾヒストが自分の欲望を満足させるには相手の同意が必要である。この同意はマゾヒストを焦らし、その突出的「空白」に快感を覚えさせ、生を肯定させる。 非日常を日常として風俗化する試みであるが、森毅は、『全共闘神話について』において、そうした政治の風俗化を次のように述べている。 政治が風俗化することを、忌みきらう人もいるかもしれない。しかしぼくは、かつて理論が無媒介的に力となったことはなく、風俗化こそ力である、という考えを持っている。あの六〇年代末、学生運動が政治的な力たりえたのは、それが風俗化しえたからだと思う。それゆえに、あの前後の政治的頂点を、ナンテールでもなく、バークレーでもなく、安田講堂でもなく、ぼくはウッドストックに見る。 ついでに言えば、あの当時、非日常的突出性が強調されたのにぼくは反対で、突出性を日常にとりこみ風俗化すべきだ、というのがぼくの少数意見だった。その意味で、七〇年代で、マンガやミュージックの風俗運動が政治運動と乖離し、風俗が政治的力を失ったことは気になっている。それには、風俗化を嫌った政治運動家の禁欲主義的軍事化が原因となったとも思うが、運動としてかかわらなかったぼくとしては、べつにそれを非難しようとは思わない。あんな楽しい日を味わわせてくれた彼らを、どうして非難できようか。 谷崎は「非日常的突出性」を強調しているのではなく、「突出性を日常にとりこみ風俗化」している。谷崎は「風俗」を日常の一部と考え、後に述べるように、哲学や政治を「風俗化」していく。 ジル・ドゥルーズは、『サドとマゾッホ』において、マゾヒズムを次のように解説している。 マゾヒスト的自我の破壊は、表面的なものであるにすぎない。みずからごく弱々しいものだと告白する自我の背後に、驚くべき嘲笑が、ユーモアが、したたかな反抗が、勝利が身を隠していることだろう。自我の弱々しさは、マゾヒストが仕掛けた罠であり、その罠が、女を振りあてられた機能の理想的な点へと導くものなのだ。マゾヒズムに何ものかが欠けているとするなら、それはいささかも自我ではなく、超自我である。 マゾヒズムとは、超自我がいかにして破壊され、またそれが何の手によるのか、そしてその破壊から何が生起するのかを説く一篇の物語である。聴き手はえてしてその物語を聞き違い、まさに超自我が死に瀕した瞬間に、それが勝利したと思いこみがちである。それは、およそ物語といわれるものにはつきものの、また物語に含まれる「空白」につきものの危険である。 サディズムとマゾヒズムはまったく別の動機と異なる意味を持っている。サディズムがユング的であるとすれば、マゾヒズムはフロイト的である。契約を憎悪するサディズムはカントのリゴリズムに対するアイロニカルな批判として、制度を嫌悪するマゾヒズムはヘーゲルに対するユーモラスなものとして登場している。フランキー・ゴーズ・トウ・ハリウッドがマゾヒズムをテーマにした『リラックス』をヒットさせたが、この歌詞には、マゾヒスト的自己から見れば、制度的なものを記すという大きい誤りが含まれている。マゾヒズムには「主人と奴隷」の関係があるが、それは制度的なものではなく、契約によって成り立っているのである。「人権宣言」のパロディである「奴隷宣言」を表紙に掲げている三和出版の『スレイブ通信』がそれを表わしているのだ。谷崎の『台所太平記』は家政婦の悪意に従うマゾヒズムを描いている。家政婦は契約によって雇う側に従属的であるかに見えて、実は、その家庭の現状を知ることができるがゆえに、彼は彼女に従う。 Oh oh Wee-ell-Now! Relax don't do it When you want to go to it Relax don't do it When you want to come Relax don't do it When you want to come When you want to come Relax don't do it When you want to to
go to it Relax don't do it When you want to come Relax don't do it When you want to suck it to it Relax don't do it When you want to come Come-oh oh oh But shoot it in the right direction Make making it your intention-ooh yeah Live those dreams Scheme those schemes Got to hit me Hit me Hit me with those laser beams I'm coming I'm coming-yeah Relax don't do it When you want to go to it Relax don't do it When you want to come Relax don't do it When you want to suck it to it Relax don't do it (love) When you want to come When you want to come When you want to come Come-huh Get it up The scene of love Oh feel it Relax Relax Relax Higher higher
Relax Now's The Time, It's Party Time Hey (Frankie Goes To バタイユの姿勢がエロティシズムであるならば、谷崎は「アンチエロティシズム」と呼ぶことができよう。けれども、谷崎はタナトス主義もとらない。先に述べた通り、マゾヒズムがタナトスに基づいていないように、谷崎の哲学がアンチエロティシズムである。アンチエロティシズムは、エロティシズムに対して、たんに反発するような消極的な態度ではない。それははるかに能動的である。バタイユのエロティシズムはあくまで見ること、厳密には、眺めることから生ずる。一方、谷崎は触ることによって性的快感を覚える。見ることを特権化したバタイユは自分の作品が点字に翻訳されることを考慮したことが、まったくない。 谷崎は触ることの快感を次のように述べている。 私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたたかい温味とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよぷよとした肉体を支えたような感じでもある。 (『陰叡礼讃』) 私は実はもう一歩進めて、手ざわりの快感においても、(少なくともわれわれ日本人に取っては、)東洋の女が西洋の女に優っているといいたい。西洋の婦人の肉体は、色つやといい、釣合いといい、遠く眺める時は甚だ魅惑的であるけれども、近く寄ると、肌理が粗く、うぶ毛がぼうぼうと生えていたりして、案外お座が覚めることがある。それに、見たところでは四肢がスッキリしているから、いかにも日本人の喜ぶ堅太りのように思えるのだが、実際に手足を掴んでみると、肉附きが非常に柔かで、ぶくぶくしていて、手答えがなく、きゅっと引き締まった、充実した感じが来ない。 (『恋愛及び色情』) 谷崎は触感を大切にする。見ることを重視するはずの日本料理においても、谷崎には、「手ざわり」が第一義になっている。それだけでなく、谷崎は女性の顔に関してはあまり語っていないし、女性の登場人物も男性の容貌に関心を示していない。見ることは固有名詞を失わせる。マゾヒストは契約を結ぶがゆえに、固有名詞に固執する。固有名詞は絶対的なものではない。マゾヒズムは唯一神教のパロディである。狭い範囲の中、あるきっかけによって偶然出会うのであり、すべてを知った上で、選択するわけではないから、基盤は脆弱であり、矛盾に満ちている。絶対的なものなどなく、すべては相互連鎖的である。平穏無事である以上に、はるかに苦痛のほうが多い。われわれは退屈するし、飽きるし、ほかの人に惹かれることもあるし、喧嘩もすれば、顔を見るのも嫌になる。『卍』や『蓼喰ふ虫』には性的にあわない夫婦が登場してくるが、当然、こういう不和が原因で別れた経験は生きている間に最低一度くらいはあるだろう。生きていく際に、どうしようもなくつきまとう苦痛から避けるのではなく、それを身に引き受けるほかない。恋愛は世俗的であるが、エロティシズムは反世俗的であり、世俗的にはあふれている多種多様な差異を均質化する。視覚を特権化・超越化するバタイユと違い、谷崎は見ることだけでなく、触れることを重要とする。それどころか、彼は地べたにはいつくばることを望む。マゾヒストは孤独ではありえず、相手を説得しなければならない。マゾヒズムはエロティシズムでも、プラトニズムでもない愛の希求である。谷崎はプラトンを読んでいたが、サディズムを批判するにはプラトニズムを用いるのでは不十分だということを『青塚氏の話』への否認が告げている。かつてザ・フーのピート・タウンゼントは「ロックンロールはわれわれを苦悩から逃避させるものではない。悩んだまま踊らせるのだ」と言ったが、愛は「われわれを苦悩から逃避させるものではない。悩んだまま」生きらせる。 サドを愛読していたロラン・バルトは、『恋愛のディスクール・断章』において、次のような憤飯ものの愛を書いている。 その朝、至急に「大切な」手紙を書く必要があった。なにか、計画の成否をかけた手紙だったのだ。ところがわたしは、そのかわりに恋文を書いている。それも、けっして投函することのない恋文を。世間に押しつけられた陰鬱な務めも、理性的なこまめさも、反射的な行動も、すべてを喜々として放棄したわたしは、輝かしい「義務」に、愛の「義務」に課せられた無益な務めの方をとる。ひとしれず狂気の振舞いに出る。おのが狂気のただひとりの証人になる。愛がわたしの内に露呈せしめているのは、エネルギーなのだ。わたしのおこないはすべて意味がある(だからこそわたしは生きることができる。愚痴をこぼさずに)。ただ、その意味というのが、把えがたい目的性のことなのだ。 この「愛」は審美的であり、陰気なマニア趣味と同じである。「じっさい、この意識のたわごとは、他方がBと言えば一方はAと言い、そうしてまた他方がAと言えば一方はBと言って、自己自身との矛盾におちいることによって相互間の矛盾のうちにとどまる喜びを購うところの頑童たちの口論である」(ヘーゲル『精神現象学』)。 * 三人称の語り、一人称、語り手がその語りの中に入りこむ歴史と現代の混合形、書簡体、日記体など叙述形式は多様であるが、谷崎のテーマは、実生活において彼が人間に対して無関心を示す動物である猫好きだったように、マソヒズムと一貫している。谷崎の作品の男性主人公は、伝統的な近代日本文学の男性の性格──消極的で優柔不断、意志薄弱──を持っているが、はるかに徹底している。彼らは対象と契約を結ぶ。谷崎にとって、恋愛は契約関係である。また、マゾヒズムは、いくつかの作品で、女性の足に対するフェティシズムとして、象徴的に表わされている。彼のフット・フェティシズムはガラスの靴にあうシンデレラを求めるようなものではない。『刺青』の「この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを踏みつける足であった」という記述が告げているように、踏みつけられ踏みにじられる足を崇拝する。ドナルド・キーンの『谷崎潤一郎の文学』は、今日においても、最良の谷崎論の一つであり、彼もこの点に言及している。谷崎にとって、女性は、サロメのように、残酷でなければならない。「悪イ性質ノ女ノ方にヨケイ魅セラレル。時ニヨルト顔ニ一種ノ残虐性ガ現ワレテイル女ガアルガ、ソンナノハ何ヨリ好キダ」(『瘋癲老人日記』)。『痴人の愛』のナオミはメリー・ピックフォードをモデルにしたモガだし、『瘋癲老人日記』の立凧子はシンクロナイズド・スイミングをしている。彼女たちは彼らに束縛されることはない。『瘋癲老人日記』のフット・フェティシズムは日記体がさらに強調する。谷崎は、日記体によって、フェティシズムについて書くのではなく、それとして書くことを可能にしている。谷崎の作品の主人公は恍惚のディスプレーにほかならない。 痛みは、生物学的に、性とも密接にかかわっている。「内皮細胞は、常に血流にさらされていて、その流れの変化や血液内の化学物質に対して反応し、血管平滑筋の収縮を調整する物質を放出する。そのような血管平滑筋に作用する物質としてきわめて重要なものが、比較的最近になって発見された。一酸化窒素(NO)である。器官の中で枝分かれした動脈の一部が細くなると、そこだけ流れが速くなって内皮細胞が血液によってこすられる。その摩擦の刺激を受けた内皮細胞は、アルギニンというアミノ酸をNOSという酵素(一酸化窒素合成酵素)によって分解して、NOを作り出す。近傍の平滑筋細胞を拡張させる働きを持っている。その結果、細くなっていた動脈が広がって、器官の中での血液のバランスを回復する。これは極めて不安定な物質で、酸化物質があると速やかに壊されて効力を失ってしまうので、あまり遠くの血管には作用しない。内皮細胞が壊れていると、そういった局所での血流調整がうまくいかなくなり、結果として器官そのものが傷害されることも少なくない」(坂井建雄『血液6000キロの旅』)。一九八七年に血管の細胞から筋肉を弛緩する物質が放出されているのがイギリスのモンカダらにより発見され、それが従来毒物と考えられてきたNOだと突きとめられる。NOは中性分子ではない。不対電子を持つラジカル分子であるため、半減期が数秒と短く、空気中では、すぐに酸素と反応してしまい、二酸化窒素に変化してしまう。ところが、そうした性質のNOが神経や細胞間の情報伝達物質として、免疫系・循環器系・消化器系・神経系などあらゆる組織で多様な生理作用にかかわっていると推測され、研究が続けられている。NOの合成酵素は二種類あり、一つは血管や脳、もう一つは白血球とマクロファージに存在する。また、男性陰茎海綿体平滑筋に分布する神経にもあり、性的興奮によってNOを合成する。勃起はその作用で起こる現象であり、バイアグラはその作用を持続させる。ニトログリセリンを服用すると、狭心症の発作がおさまるのは、分解してできるNOが冠動脈を拡張するためである。ニトログリセリンとバイアグラを併用するとNOが相乗的に働き、全身の血管を弛緩させ、急激な血圧低下などを招き、重篤な事態に陥ってしまう可能性がある。さらに、吸血昆虫は、人の血を吸うとき、NOを放出して、人の血管を広げ、血を吸いやすいようにしている。人間の体内で、NOはすぐに亜硝酸や硝酸に酸化されて、尿中に廃棄される。NOはアメリカの科学雑誌『サイエンス』により「一九九二年の分子」に選ばれ、一九九八年、NOの生理作用を解明したロバート・ファーチゴット、ルイス・イグナロ、フェリッド・ムラドの合衆国の研究者三人がノーベル医学生理学賞を受賞している。 性風俗をめぐる作家として谷崎と永井荷風がしばしば比較されるが、谷崎自身は、『雪後庵夜話』において、それについて次のように述べている。 私は、対女性の態度でも先生(=荷風)とは行き方を異にしていた。私はフェミニストであるが、先生はそうではない。私は恋愛に関しては庶物崇拝教徒であり、ファナチックであり、ラジカルで生一本であるが、先生は女性を自分以下に見下し、彼女等を玩弄物視する風であるが、私はそれに堪えられない。私は女は自分より上でなければ女とは思わない。(略)私は又外貌がどんなに美しくても、病的で、不健康で、体内が不潔そうに思える女を嫌った。美人ではあるが、過去にさまざまな経歴を持った、所謂海千山千の女を嫌った。ところで晩年の永井先生は、私の最も忌み恐れている階層の女に好んで近づき、彼女たちを無二の友とすることで世間に反抗した。私には先生のような反骨や社会的批評の精神がない。先生のものには「ひかげの花」のお千代や「墨東綺譚」のお雪のような女が現れるが、私の作品に出て来るのは「蘆刈」のお遊さんや「春琴抄」の春琴や「鍵」の郁子や、せいぜい「台所太平記」の女中たちのように若くて清潔で溌刺した女性ばかりである。 永井荷風のような存在はどんな時代にも一人はいるものである。彼は。むしろ、猥褻なサディストである。芸術が猥褻であるか否かはこの態度にある。マゾヒズムには反復は重要な要素である。繰り返しはともすれば退屈になってしまう。サディストはこれに耐えられず、刺激に走るやめ、猥褻志向である。限りなく反復することによって目的を達成するマゾヒストは陽気でなくてはならないが、サディストは冷笑的である。プチ・ローベルは、エロティシズムが「性的な事柄に関する内面的・病理的趣味」であり、ポルノグラフィーは「公表を目的とした猥褻表現」であると定義している。だが、エロティシズムは、「連続性」を希求する以上、猥褻なポルノグラフィーへと転換する。猥褻は飽きやすい。ポルノグラフィーはエロティシズムと違い、猥褻から離れ、芸術となる可能性が高いけれども、それにはデカダンスであると同時にユーモラス、すなわち健康的であることが不可欠である。ヌード写真が芸術的となるには、写真家の態度が対象に対してサディスティックではなく、マゾヒスティックでなければならない。写真家は対象に谷崎のような姿勢で望まねばならぬ。サディストの撮影する写真は猥褻である。反復不能な猥褻とはこの健康が欠落したもの、病的なまでの生の否定である。タレントの松居直美は、子供のころ、街で母親を待っているとき、車に乗った男に呼びとめられ、「お嬢ちゃん、これ何だかわかる」と手でつかんで男根を見せられたので、「豚の赤ちゃんですか」と尋ね返すと、男は敗北感をあらわにして逃げ去ったと回想している。猥褻さは性の抑圧の反動として表われるのである。だから、猥褻さを撲滅しようとするだけでは不十分でwり、それを生む状況を批判し、ユーモラスに性を語ることこそ望ましい。 『夢の浮橋』や『蘆刈』には成人した男が女性の乳を吸うシーンが登場してくる。福田恆存は、『好色文学論』において、谷崎に「子供」を発見している。マゾヒストは、子供のころの感触を想起しつつ、生きる。「永遠の少年」と呼ばれたルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、ヨーロッパ映画を嫌悪し、アメリカ映画ばかり見ており、彼が最も好んだ女優は「ブラジルの爆弾」カルメン・ミランダと「ブロンドの爆弾」ベティー・ハットンである。 谷崎も、『東京をおもう』において、「日本人でありながら日本という国がイヤになった」と次のように書いている。 私の求めるものは、生き生きした眼と、快活な表情と明朗な音声と、健康で均斉の取れた体格と、そうして何よりも、まっすぐな長い脚と、ハイヒールの沓がぴっちり篏まる爪先の尖った可愛い足と、要するに、外国のスタアの肉体と服装とを備えたような婦人であった。 この「外国のスタア」はアメリカ映画の俳優である。映画やジャズなどの音楽、それにスポーツの世界では、すでにアメリカが中心である。ボクシングでは、史上最高のファイト・マネーを手にしたジョー・ルイスを筆頭にジャック・デンプシー、ロッキー・マルシアーノらがリングをわかせ、陸上競技では、ジェシー・オーエンスが短距離走の記録を塗り替えている。また、ベーブ・ルースが野球を作戦を楽しむアベレージ中心からホームラン中心、すなわち短打から長打へと変え、国民的娯楽へと地位を向上させ、その引退後は谷崎の「求めるもの」そのものを体現したマリリン・モンローと結婚したジョー・ディマジオが、五六試合連続安打を達成して、空前の人気を博す。「あの偉大なディマジオも踵を痛めているのに頑張っている。自分も頑張らねば……」(アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』)。子供は豊かなバストやヒップを好むが、その理由はグラマラスな姿態が触り心地好いからだ。子供にとって、対象は見るためではなく、口に入れたり、触ったりするためにある。豊満な「マリリン・モンローの肉体」には「実用性に裏打ちされたものであったと思われる」ような「美をこえた重大さ」(寺山修司『幸福論』)がある。子供はこの「美をこえた重大さ」に敏感である。 谷崎が、サディストと違い、見ることを重視しないのは、『盲目物語』や『春琴抄』からより強調される。『秘密』でも主人公は目隠しをされている。フロイトの言う肛門期にある谷崎は女性の排泄に魅惑されるが、そこでも見ることは特に大切ではない。『少将滋幹の母』でも、平中が滋幹の母に魅せられてお虎子の中身を調べ、その香りに好奇心を募らせ、排泄物と推測されるものの味見をしている。「便所の匂いには一種なつかしい甘い思い出が伴うものである」(『厠のいろいろ』)。谷崎は「便所」に関して「匂い」から郷愁を覚えている。匂いには計量的に表わせる単位がない。見る=自意識=主観性の図式を彼は拒む。谷崎は、『正宗白鳥の批評を読んで』において、「私の近頃の一つの願いは、封建時代の日本の女性の心理を、近代的解釈を施すことなく、昔のままに再現して、しかも近代人の感情と理解に訴えるように描き出すことである」と書いている。封建時代を扱った日本のほとんどの作品は「近代的解釈」を施しており、その時代を選択する意味などまったくない。それらは時間と金の無駄遣いとも言うべきである。さらに、谷崎は、『春琴抄後語』において、「春琴や佐助の心理が書けていないという批評に対しては、何ゆえに心理を描く必要があるのか、あれで分っているではないかという反問を呈したい」と反論する。これはまったく正当であろう。戒能通孝の『法廷技術』によると、東京裁判で、日本の弁護士が証人に「彼は何を思っていたか」と質問するのに対して、裁判長は「他人の気持は悪魔にもわからないという諺が西洋にありますよ。彼は何をいったか、何をしたかといってお聞きなさい。彼は何を思っていたかと聞いたって無意味です」とたしなめている。谷崎が心理描写を斥けるのは、それが見ることに基づいているからである。彼がサイレント時代の映画に関心をよせたのは、視覚的なメディアに対する挑戦である。 子供は愛着や愛情のあるものを抱きしめて寝るものである。子供はぬいぐるみと一緒に寝るから、そのぬいぐるみには髪の毛や唾液、よだれ、涙、食べ物の匂いにシャンプーやリンスの香り、太陽の匂いがしみついている。嗅覚は分析的であり、一般的標準を規定して測定することの最も困難な感覚である。子供は押し入れに閉じこもったり、机の下に隠れたり、地下室を掘ったり、穴にひそんだりと外からは見えない世界を好む。眠る前に布団の中に入りこんでゴソゴソ、モゾモゾしている。そこで子供はさまざまなコスモロジーを創造するのである。子供は自意識や超自我の上に自我を置く。子供にも悩みはあるが、大人と違って、悩みは恨みに変換しない。意図や偏見を持って押しつけを強要するものに対しては、子供は、『猫と庄造と二人のおんな』の猫と同じように、無視する。子供は排泄行為やそれに関する話を好む。排泄は内臓感覚を拡大する手段である。谷崎は内臓感覚を重視する。『細雪』は「下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた」という叙述で幕を閉じているが、排泄行為には快感が伴うことは確かであろう。便秘の苦痛たるや、とても耐えられるものではなく、それが治ったときの爽快感は唯一無二である。排泄の快感は「なつかしさ」に基づいている。「日本の建築の中で、一番風流にできているのは厠であると云えなくもない」(『陰翳礼讃』)。『いなかっぺ大将』の風大左衛門は放尿行為に快感を覚えていたが、彼によれば、立ち小便するにも、「ただ立っているだけで、だれもが、ついふらふらと、オシッコをしたくなるムード」の太さと長さを持った「クイ」がなければ、「おちついて、気持ちよーくする」ことができないのであって、もしないのなら、どんな緊急事態でも、まず、その条件にあう「クイ」を探し、打ちこんでから、「おちついた気持ち」になって、「オシッコ」をしなければならないの「だす」。谷崎は人間以外の生物が持つこの懐かしさをともなったとてつもない合理性を見出す。 谷崎は、『早春雑感』において、芸術についても次のように述べている。 毎年、冬になるとどうも創作熱が起らない。冬書いたもので自分の気に入っているのは「人形の嘆き」と「魔術師」だけであるが、それも実は十月ごろから腹案が出来て居て十二月の中旬迄に書き上げたのであった。(略)創作熱と云うものは如何なる形で起って来るかと云うに、畢竟春が来て草木の葉が芽を吹くように、芸術的空想が頭の何処かでぶつぶつと醗酵し始める。──其れを意識した時に何か創作を書いて見たいと云う切実な衝動を感じる。その衝動を創作熱と云うのだろう。(略)凡ての芸術に、若し何等かの共通な基盤があるとするならば、私は前に述べたような空想の発生が其の基盤であると云いたい。(略)所謂ロマンチシズムの作家とは、空想の世界の可能を信じ、それを現実の世界の上に置こうとする人々を云うのではなかろうか。芸術家の直観は、芸術の世界を踊り超えて其の向う側にある永遠の世界を見る、プラトン的観念に合致する。──こういう信仰に生きて行こうとするのが、真の浪漫主義ではないだろうか。 谷崎のこの意見はジョン・デューイの芸術論に類似している。これは反美学的美学である。谷崎は芸術制作を生命活動の流れの中でつかまえようとしている。彼は、生きることの諸条件や諸前提に遡って、芸術をつくる。なるほど谷崎はロマン主義の意義を適格に把握している。だが、谷崎はロマン主義のパロディストであっても、三島と違って、そのものではない。彼の「衝動」は弁証法的過程を形成している。谷崎は肯定の弁証法を働らかせる。否定の否定という過程は、谷崎には、肯定ではなく、運動のない否定の深化としか移らない。谷崎の弁証法では、あらゆるテーゼはアンチテーゼを持たず、排泄物のように、混じりあってたれ流される。彼の運動は排泄の弁証法にほかならない。 谷崎は関係論者であり、関係から出来事や物事を考察する。恋愛には罪の意識が、それが三角関係にあるなら、特に、働く。谷崎の作品にはそれがない。谷崎にとって罪はいつも能動的であり、その罰を忘却してしまう。谷崎は罪を、能動的に、陽気に、犯す。下された罰にも苦痛ではなく、恍惚感を抱くのである。恋愛に罪の意識がつきまとうのは、その罪が受動的なものとして理解されているからであり、その受動的罪が三角関係を生み出す。 語り手と書き手も弁証法的関係にある。これは、ヘーゲルとは違い、上向きではなく、下向きである。それはあたかも氷柱に対する氷筍のようだ。書き手と語り手の関係はマゾヒスティックであることが求められる。語り手は言語的世界にマゾヒストとしていなければならないし、書き手は作品にマゾヒストとしていなければならない。谷崎は小説を書く際、語尾にもこだわったが、マゾヒズムが表われるように、「である」を嫌っている。比較すると、三島の作品の場合、書き手は語り手に対してサディスティックであり、語り手は言語的世界にそうであって、それは変化しない。弁証法を基盤とする谷崎は運動する。反弁証法のサディストは静止状態を望むが、マゾヒストである彼は一つの地点にとどまることはできない。そのため、谷崎の文体は作品ごとにだらだらと変化する。 サディズムは神話的儀式を演じ、マゾヒズムはそのパロディである。三島の作品が物語であるならば、谷崎の作品は物語的だと言える。彼の失われた母親の探求というエディプス的主題は強い母親の容認と父親機能の無効という否認である。『鍵』や『瘋癲老人日記』の一人の女と二人の男、また『母を恋ふる記』や『蘆刈』、『夢の浮橋』なども父−母−子の三角関係も下方の弁証法として描かれ、エディプス的主題は台無しにされる。喜劇の理論にもっとも示唆をあたえてくれるのがフロイトで、ロマンスにもっとも示唆的なのがユングである。ユング派のサディストの作品はロマンスであり、フロイト派のマゾヒストは喜劇志向である。サドの作品は、閉じられた時間と空間によって、構成されている。ロマンスは実際に生きている人間を描くことを目的とはしない。サディズム的作品はアイロニー的傾向の強いロマンスであり、サディストは経験的世界を軽蔑、罵倒、唾棄し、悪魔的イメージを提示する。この世界は、少なくとも、書き手であるサディストにとっては、望ましいものである。彼の作品にはそのイメージの再現機軸として女性原理と男性原理が登場してくる。サディストの作品では、アニマはアイロニーに特有な生贄であり、憎悪と恐怖の象徴である。サディストは、ロマンス基盤にアイロニーと喜劇的要素によって、作品を修飾する。マゾヒズムはそのパロディであり、谷崎の作品はロマンス的喜劇のパロディに属する。排泄の弁証法であるため、谷崎の登場人物は精神的に発展しない。作品が終わるとともに、マゾヒズムは忘れられる。喜劇的世界は、作品の終焉にともって、解体してしまう。ロマンスは、通常、円環構造を示しているが、谷崎の作品においては、円が成り立たない。谷崎は円環の成立に同意しない。 * ここまで論じてきたことから、マゾヒズムは苦痛に快楽を見出すという偏見は否定されてしかるべきである。マゾヒストは、サディストと違って、暴力を憎む。マゾヒストは、快楽を求めるために、苦痛を忘却する。その快楽は、サディズムにおいては夢であるとすれば、陶酔状態である。谷崎は予期される事態を待ち望む。谷崎の文体の速度は遅い。谷崎の作品は間接話法の長いセンテンスによって緩やかに流れていく。谷崎は、怠惰な大阪弁を用いて、のらくら、とことん焦らす。 谷崎はもともと標準語で書いていた『卍』を次のように大阪弁に直している。 主人は絵だの文学だのにはさっぱり興味がない方なのでございますが、私が学校へ行きますことは賛成いたしてくれまして、それは結構だ、いい思いつきだから精出して行くがいいと云うて、自分から勧めたくらいなのでございました。 (初稿) 主人は絵ェや文学やにはてんと興味のない方やのんですが、私が学校に行きますことは賛成してくれまして、それは結構や、ええ思いつきやさかい精出して行くのがええ云うて、自分から勧めたくらいやのんでした。 (決定稿) 両者を比べてみると、この変更によって、文章の速度が遅くなっていることは明白であろう。「おじはん」という言葉は大阪弁のネイティヴ・スピーカーならば、明らかに誤った用法であると指摘できるが、大阪弁を習得言語として会得したものにとっては、「おっさん」のほうが正しいのではないかと違和感を覚えても、確実な判定はできない。谷崎は東京弁から大阪弁に翻訳した際、文章がぼやけていくように感じている。谷崎に大阪弁はこうした体験をさせる。マゾヒズムは苦痛に耐えてそこに快楽を見出すのではなく、苦痛を忘却して快楽を感受することである。マゾヒストの陶酔は忘却の快楽である。谷崎は、ときとして、筋を忘れ、エピソードやマニア的知識を書き始め、さらに、それらすらも忘れ、筋に復帰していく。マゾヒストは苦痛を嫌悪する。彼はオルガスムス的絶頂感以上に、持続された高い水準の状態を好む。焦らされるのを請う谷崎は、『私の見た大阪及び大阪人について』において、京都よりも、大阪に好意的である。女性に関してはファッションは垢抜けないが、声や言葉から考えると、大阪がよいと「個性美」を認める谷崎は評価している。大阪弁は「滑稽」であるけれども、京都人はユーモアをあまり解さない。京都より、欲望が顕在的なだけ大阪がよいというわけだ。谷崎に従えば、関西人はレトリックを多用するが、焦らしの大阪と違って、京都的なものが秘めているのは陰険さということになる。 谷崎の苦痛と忘却の考えはフリードリヒ・ニーチェの永遠の回帰を思い起こさせる。 苦痛はまたよろこびであり、呪いはまた祝福であり、夜はまた太陽なのだ、──去る者は去るがいい! そうでないものは学ぶがいい、賢者はまた愚者だということを。 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛しあっているのだ。── あなたがたがかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら、「これは気にいった。幸福よ! 束の間よ! 瞬間よ!」と一度だけ言ったことがあるなら、あなたがたは一切が帰って来ることを欲したのだ! ──一切を、新たに、そして永遠に、万物を鎖でつながった、意図で貫かれた、深い愛情に結ばれたものとして、おお、そのようなものとして、あなた方はこの世を愛したのだ! ──あなたがた、永遠のものたちよ、世界を愛せよ! 永遠に、また不断に。そして、嘆きに向かっても「去れ、しかし帰って来い」と言うがいい。すべてのよろこびは──永遠を欲するからだ。 (ニーチェ『ツアラトゥストゥラ』) たった一度でも生が肯定される瞬間があったなら、その「よろこび」によって世界や生を「然り」とし、「帰ってこい」と叫び得るものにする。生き難い現実に対して働きかけるか否かだけではなく、表われてきた今ここをどのように生きるのかと問うている、すなわち苦悩を「反感」の病的な回路に向け、生を否定し、それを晴らすように復讐のために生きるのか、それとも苦しみを「わたしがそのように欲した」へとつくりかえて、よろこびを一切の苦しみとともに「去れ、しかし帰って来い」と健康的に肯定するのかの二者択一を提示している。われわれは谷崎は円環成立に同意しないと先に述べたが、彼は郷愁の回帰は好む。ロマンス的円環と郷愁の回帰の差異はこの選択にある。郷愁的な回帰をわれわれが愛するのは、メリーゴーランドや観覧車、染之助・染太郎の芸を楽しむことから明らかである。人間の生の円環性はその一つの側面として百科全書的形式に関連している。ヴォルテールやディドロ、ダランベールらのつくった『百科全書』は、語源的には、「諸学問の連鎖」を意味し、森毅の『数学の歴史』によると、「百学を一つのサイクルに統合しようとするもの」である。マニア的知識と教養を作品に熱心に、ユーモアあふれる散文によって、書きこむ谷崎はその百科全書派のパロディである。 自伝的要素の強い『神童』や『鬼の面』、『異端者の悲しみ』といった作品群はサディズム出現のプロセスを描いたものである。谷崎は先天的にマゾヒストだったわけではなく、サディズム克服としてマゾヒズムを選びとっている。『少年』はサディズムの反転としてのマゾヒズムではなく、サディズムの克服としてのマゾヒズムが展開されている。『饒太郎』の泉饒太郎の行動も、最終的に、マゾヒスト的である。『金色の死』を谷崎が認めないのは当然である。それは、マゾヒズムではなく、サディズムだからだ。 フロイトは、『性に関する三つの理論』において、肛門期をアイスキュロスの『縛られたプロメテウス』を比喩に用いて説明している。この作品は、本来、『解放されたプロメテウス』と『火をかかげたプロメテウス』という二つの失われた続編によって構成されていた『プロメテウス』三部作の第一部である。プロメテウスは(排泄物に似た)土くれから最初の人間を創造し、人間たちに初めての技術である火を与えたため、神々から、鎖で岩につながれ、鷲にはらわたをつつかれるという罰を下される。『縛られたプロメテウス』は、ニーチェの『悲劇の誕生』でも、重要な作品として言及されている。マゾヒズムの原型はプロメテウスである。プロメテウスは、ニーチェによると、神々への冒涜・略奪として火を支配し、人間はそれによって「洪水のような苦悩と悲哀」を被ることになるのだが、アイスキュロスはこの行為を「能動的な罪」と見なす。プロメテウスの行動を人間の欲望に由来する必然的に「災厄」いであると同時に「罪過」であると「是認」し、そこから生じる苦悩も受け入れるる。エディプス・コンプレックスも、『悲劇の誕生』を通して読むとき、さらなる理解が得られる。ソポクレスの『オイディプス王』が告げるものは、自然の謎を解くものが自然を破壊する、ということである。「叡智の刃先はひるがえって賢者に向かう。叡智は自然に対する犯罪である」。人間は自然に反逆してしまう存在であり、なおかつその行為によって自らの首を締めかねないが、それを認めて、生きるほかない。『春琴抄』の佐助は大火傷をして春琴の変わり果てた姿を見ないために、オイディプスのごとく、眼を針で自ら突いて、視力を失う。オイディプスの盲目は、フロイトによれば、抑圧されていた考えや願望が顕在化するときにともなう恐怖を意味している。オイディプスも、佐助も、苦痛のうちに生きることを欲する。『縛られたプロメテウス』にしろ、『オイディプス王』にしても、残忍さと暴力による拷問に近いイメージが強い。潜在期に入るにつれ、視覚が触覚を抑圧する。見ることは、男根期にもその徴候があるものの、潜在期以降、知覚作用の中心になっていく。触覚を重んじた古代ギリシアは小児期に対応する。口唇期には、味覚を含めた触覚は体内に、肛門期においては、内部と外部の両方に、そして、男根期では、体外器官にかかわっている。口唇期の関心は入れることであるが、肛門期では、出すことであり、男根期の場合、そのどちらでもない。 フロイトは、『性に関する三つの論文』において、サディズム形成のプロセスを次のように述べている。 小さな子供に性的なことなどはまだなにも理解できまいと大人は思いこんでいるので、そうした機会をあたえることがあるのだが、成人同士の性交を幼い年頃の子供にみせたりすると、子供たちはその行為を一種の虐待ないしは圧迫として、つまりサディズム的な意味に、とらないわけにはいかないのである。精神分析によると、幼少の時代にうけたこういう印象が、性目標をのちにサディズム的なものに変移させる素質をつくりだすのに、おおいに役立っていることが分かるのである。さらに子供たちは性交とはなんであるか、また彼らの考えているような結婚とはなんであるか、といった問題におおいに熱中して、この秘密の解答をたいていは、尿ないしは糞の排泄作用によって媒介されるある種の交わりに求めるのである。 フロイトは、『続精神分析入門』では、「サディズム=肛門的および男根的願望」と主張しているけれども、サディズムが視覚に原因を持っていることをこのように認めている。『秘密』は女装を趣味とする男が主人公となっているが、この種の世界は、「変装」の「はたす、一ばん大きな役割」は、「実像としての生活を虚像化する」ということではなく、「『差別』の克服ということである」と述べる寺山修司の『幸福論』所収の「演技」で、詳しく分析されている。変装は見られることを強調し、見ることの「差別」を解体する。同様に、マゾヒズムは差別を無化することである。佐藤春夫によれば、谷崎は彼に『異端者の悲しみ』が、当時評判の高かったサディスト志賀直哉の『和解』に比べて、劣るかどうか真剣に尋ねている。われわれは谷崎が馬鹿げたことに頭を悩ませたのだなと同情せずにはいられない。 マゾヒズムとサディズムの差異を契約的と制度的、もしくはユーモアとアイロニーという概念によって考えてきたが、それは、坂口安吾が、『精神病覚え書』おいて、「精神病的」と「犯罪的」を区別して次のように論じたことに端的に対応する。 精神病者は自らの動物と闘い破れた敗残者であるかも知れないが、一般人は、自らの動物と闘い争うことを忘れ、恬として内省なく、動物の上に安住している人々である。 小林秀雄も言っていたが、ゴッホの方がよほど健全であり、精神病院の外の世界が、よほど奇怪なのではないか、と。これはゴッホ自身の説であるそうだ。僕も亦、そう思う。精神病院の外側の世界は、背徳的、犯罪的であり、奇怪千万である。 人間はいかにより良く、より正しく生きなければならないものであるが、そういう最も激しい祈念は、精神病院の中にあるようである。もしくは、より良く、より正しく生きようとする人々は精神病的であり、そうでない人々は、精神病的ではないが、犯罪者的なのである。 この文面はそのエッセンスを理解する必要がある。安吾は「精神病的」と「犯罪者的」を区別している。「精神病的」と「犯罪者的」の区別は実際の精神病者と犯罪者に対応しているわけではない。両者は比喩的に用いられている。この「精神病的」と「犯罪者的」という二項対立は「より良く、より正しく生きようとする」祈念、すなわち文化の次元をめぐってとらえられている。「精神病的」と「犯罪者的」は決して一体化することがないのである。安吾は、言うまでもなく、「責任ある地位につき、自らの科するに厳なる社会人は概ね精神病者と断定して」いいだろうと述べているように、精神病を特権化も、神話化もしていない。「精神病者」は、決して、「犯罪者的」ではないどころか、「一般人よりも犯罪に縁が遠い」。「精神病者」は「いかにより良く、より正しく生きなければならない」かを考え、自らと闘い続け、疲れきってしまった人間である。従って、「精神病者」は反文化的ではなく、病の比喩によって、「犯罪」を語ることなどはまったく見当違いである。 犯罪者が、ときとして、「いかにより良く、より正しく生きなければならない」かを考えさせられる契機となることはある。「犯罪者」であるには制度的でなくてはならず、そのため、共同体の枠組みを強化する。「犯罪者」は、三島がよく題材にしたように、審美的であるとすれば、「精神病者」は政治的である。文化を考察することは制度ではなく、法を通じて他者と対峙することだ。 谷崎が非政治的だという指摘は不当である。なるほど彼自身、『東京をおもう』の中で、「政治の方に関心を持っていない」と記している。だが、マゾヒストであることはそれだけで政治的である。マゾヒストは性を制度ではなく、法や契約によってとらえる以上に、その姿勢は世俗的・政治的にならざるを得ない。表面的な姿だけで判断するのは早計である。二〇世紀初頭の合衆国最大の銀行家ジョン・P・モルガンは、神は貧しいものを愛するがゆえに、この世に貧乏人を多くつくったのだという程度の宗教意識しかなかったにもかかわらず、一九〇七年の恐慌の際、ニューヨーク市のプロテスタント系の牧師を集めて、次の日曜日には、民衆にお金を銀行に預けたままにしておくように説教してくれと依頼している。逆に、サディストの場合、政治に直接参加していたとしても、それは政治的と見なすことはできない。サドはフランス革命に反対していたが、その行動は美学的な領域に属している。一方、マゾッホは晩年トルストイ主義に傾倒する。マゾヒズムが政治と直接的に結びつくのはトルストイ主義との遲逅である。トルストイ主義は、一般的には、「質素な生活」を勧める禁欲主義的理想と見なされている。しかし、「暴力による悪に対する無抵抗」をモットーとするトルストイ主義は一種のアナーキズムである。十七世紀半ば、ロシア正教会下で行われた典礼改革に対して、その受け入れを拒否し、いくつかのセクトが教会から独立している。皇帝アレクセイの信任を得た総主教ニーコンは教義と無関係と思われる瑣末なことを改革と称したため、それを皇帝による介入と判断した聖職者たちは分派する。これは「教会分裂(ラスコール)」と呼ばれる。「分離派(ラスコーリニキ)」は社会の各層に支持を広げ、ドストエフスキーやトルストイも関心を強く持っている。その中には、鞭打ちによって神との一体化を試みる鞭身派や一切の性的快楽を拒絶する去勢派などがある。トルストイのアナーキズムはこれらのセクトからの影響を無視できない。トルストイの理論は、福音書に由来した素朴とも言うべきメシア信仰に彩られている神秘主義的なアナクロニズムに満ちたまがまがしさに覆われている。トルストイ主義とは晩年の作品−−『懺悔』や『福音書』、『わが宗教』、『救いは汝のうちにあり』、『芸術とはなにか』など−−に具現している思想を指す。アナーキズムは、一九七〇年代以降では、被抑圧者の暴力を権力への対抗手段として肯定する傾向にあるが、トルストイはそれも否認する。「非暴力」の行使は被抑圧者に忍耐を勧めるものではなく、「万人のため、従って権力を所有する人々、わけてもこれらの人々のためである」。トルストイがいかなる発言をしても、世界的な名声を博した大文学者であるという理由で、アナーキストに対しては容赦なく弾圧したロシア政府でさえも、黙認した。ロシアを救うのは福音書の教え以外にはないと『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』を書いたトルストイは、本気で、信じている。トルストイは、その意味で、「反動的文学者」(柄谷行人)である。 トルストイは、「絶対君主制であろうと、議会制であろうと、総督政治であろうと、第一あるいは第二帝政であろうと、ブーランジュ式の統治であろうと、立憲君主制であろうと、コミューンないしは共和制であろうと」、いっさいの国家も政府も認めない。数あるアナーキストの中で最も激しい口調で反国家の言葉を書き記したのは彼なのである」(アンリ・アルヴォン『アナーキズム』)。 さらに、アンリ・アルヴォンは、『アナーキズム』において、トルストイ主義を次のように要約している。 あらゆる抑圧形態を敵視しながらも、トルストイは財産制度に抵抗することしかできない。富は罪悪である、なぜならそれは富を所有する者の所有しない者にたいする支配を保証するからである。このような財産の帰趨は、生産手段、土地、道具が問題となるとき、とくに顕著となる。生産手段の所有者は、もっぱら自己のために労働者を労働させることができる。トルストイの考える解決法は、愛の公理から着想を得ている。どんな人間も、みずからの力量に応じて労働する。ところが必要な分を得るだけで、それ以上は得ていない。このようにして、人間は自分自身の生活手段だけでなく、病人や老人、子供たちの生活手段も確保していないことになる。すべての個人的利益の排除、トルストイはこれを福音書の名において主張する。またミールの支配原理を念頭において、これを主張するのである。ミールとはロシアの農村共同体で、そこでは万人がその個人的利害にとらわれずに全員一致して労働する。 トルストイの批判は、他のアナーキズムとは比較にならないほど、根源的である。一九一〇年、死の二ヵ月前、トルストイはヨハネスブルクに住む弁護士のカンジーに手紙を書き送る。「私たちには世界の果てとも思えるトランスヴァールでのあなたのご活躍は、私たちの関心の的となっております。それは、今日、地上に存在するもののうちで最も貴重なものです」。ガンジーによって、トルストイ主義は、インドで独立という劇的な勝利を収める。「暴力を用いて欲深い人たちを追払った人たちが、つぎには自らが、その敗北者と同じ病気に悩むことになる。これは歴史が教えてくれたことである」(ガンジー『自叙伝』)。トルストイやガンジーは、確かに、晩年、極端に性に対して禁欲的姿勢をとっていたが、それは彼らが、若いころ、サディスティックにのみ性を考えていたことへの自己批判である。「父の危篤時の肉欲の恥辱は……私がどうしても消したり忘れたりすることのできぬ汚点である」(同)。 ガンジーは、生涯一九回の断食を行い、その間、しばしば浣腸をしているように、谷崎と同様、スカトローグである。マゾヒズムとスカトロは密接な関係にある。スカトロも快食快便、便秘・下痢と志向性がわかれる。ドゥルーズ=ガタリは脳の神経系をモデルに「リゾーム」を説いたが、スカトロは脳を活性化し、内臓感覚、すなわち自律神経の働きを重視する発想である。自律神経の調整機能が高まると、血行がよくなるため、自然治癒力が増す。自律神経の働きを高めるには、ブドウ糖を十分に摂取し、脳を活性化しなければならない。酒が強いか弱いかは、ある酵素のアルテヒド分解能力の差もあるが、脳の細胞がアルコールに対する感受性が鈍いか鋭いかである。アルコールの血中濃度が〇・四%を超えると死の危険性が高くなる。ディオニュソスは、そのため、われわれにあの秘教を伝えている。エライス・スペルモー・オイノーがわれわれの脳に住んでいる。「脳は腸からはじまった」(藤田恒夫『腸は考える』)。脳は神経系、腸は内分泌系を代表するが、両者に共通の信号物質が存在する。腸は今でこそ脳の自治区として見られているけれども、むしろ、脳が腸から独立したのであり、依然として、脳は外部との接触を腸に頼っている。腸の政治経済学、腸の精神分析学、あるいは腸の哲学を提唱すべきである。それは脳の神経をモデルにしたリゾームを超える。われわれは、一九〇一年、「ホルモン」の発見者であり、命名者であるW・M・ベイリス=E・H・スターリングにならって、これを「偉大なる午後」の理論と呼ぶ。さらに、尿も腸壁から吸収され、透過し、透明から黄色、ときとして、赤というように、鮮やかな暖色を示す。便が幾何学的であるとすれば、尿は代数学的である。便も尿も、健康を判断する際、重要な役割を果たす。健康は快感と結びついている。便や尿を恥ずかしく感じ、無理に我慢し始めるとき、空想も思考も病気になる。 われわれは、サディズムよりもはるかにマゾヒズムを真剣に受けとめる必要がある。サディストの他虐性は自虐性と同一であるのに対して、他虐行為をまったくしないマゾヒストの場合、あくまでも他者との共生が望みである。アナーキズムがマゾヒズムと接近するのは両者とも制度ではなく、法と契約を基盤とするからだ。サディズムはつねにテロリズムとしてわれわれの前に表われる。サディズムの目指すものは破壊であり、それを通した再生である。アナーキズムの中でも、最も荒唐無稽と思われていたにもかかわらず、これに共鳴したガンジー、さらにマーチン・ルーサー・キングの勇気ある行動が歴史の新たな展開を招く一つの原動力となったように、マゾヒズムは創造を目標とする。このマゾヒズム=アナーキズムの系譜はジョン・レノンによって、無神論的に、さらに徹底化される。 アナーキズムやマゾヒズムは態度の変更、発想の転換を可能にする。ジョージ秋山は谷崎敵主題をマンガにおいて極限化させている。彼は、『ゴミムシくん』において、男が女の家畜であり、女の排泄物を食料にし、トイレの便器の下に住んでいるという世界を描写している。男たちは街を歩くとき、便器を首にぶらさげ、空腹になれば、女たちに排泄物を請う。しかし、女たちは男たちに対して「ざんこく」であり、とことん焦らしてからでなければ、男たちの願いをかなえてやることはしない。彼は、『銭ゲバ』や『アシュラ』などある極限状況を提示したため、かなり非難されたマンガ家である。しかし、彼が、もともとペーソス・ギャグの漫画家森田拳次のアシスタントを経て、マンガ家になった保守本流に属するのだということを忘れてはならない。上半身裸で、シャツにネクタイ、上着を履いている自画像を描くジョージ秋山は、『ざんこくベビー』で、一つ屋根の中に住みながらも、誰もがお互いに「いつか殺してやる」と腹の中で思いつつ、実際、彼らは「ざんこく」な行動を数多くするのだが、誰一人として、転がりこんできた理由も気まぐれなのだけれども、そこから出ていかず、奇妙な共同関係にある親戚と家政婦を含む家族を描いている。彼らの「ざんこく」は恨みから発せられたものではなく、対他関係から必然的に生ずる「ざんこく」である。 トマス・ホッブズは、『レヴァイアサン』において、「自然状態」を「万人の万人に対する戦争の状態」を次のように説いている。 さて、人間のおかれている状態は万人の万人に対する戦争の状態であるので、「各人は平和を得る希望の存するかぎり、それに努力すべきである。そして平和の得られない場合は戦争のあらゆる手段を探求し、戦争の効益を利用すべし」ということが理性の命令もしくは普遍法則としてたてられる。(略)第二の自然法が導きだされる。「すなわち平和と自己の防衛のために自己か必要なりと考えるかぎりにおいて、すべてのものに対する権利を、他者もまたそれを放棄する場合には、自らも進んで放棄すべし」ということである。(略)権利を互いに譲歩しあう行為は契約と呼ぶべきものである。 ところが、ジョージ秋山によれば、必然的「ざんこく」さに基づいた「万人の万人に対する戦争の状態」は、むしろ、その構成員にとって、快楽を与えてくれる好ましいものではないのかと問い返す。 ただし、殺人を合法化できるのは政治だけである。ホッブズがそこに迫っているのに対して、ジョージ秋山はまったくそれをわかっていない。政治の「ざんこく」を欠いた残酷物語などまったく無意味である。谷崎は、間違いなく、それを理解している。 Oh a storm is threat'ning
my very life today If I don't get some shelter Oh yeah, I'm gonna
fade away War, children, it's just a shot away,
it's just a shot away War, children, it's just a shot away,
it's just a shot away See the fire sweepin'
out very street today Burns like a red coal carpet, mad bull
lost its way War, children, it's just a shot away,
it's just a shot away War, children, it's just a shot away,
it's just a shot away Rape! Murder! It's just a shot away, it's
just a shot away Rape! Murder! It's just a shot away, it's
just a shot away The floods is threat'ning
my very life today. Gimme, gimme shelter
or I'm gonna fade away War, children, it's just a shot away,
it's just a shot away It's just a shot away, it's just a shot
away, it's just a shot away Love, sister, it's just a kiss away, it's
just a kiss away It's just a kiss away, it's just a kiss
away It's just a kiss away, it's just a kiss
away (The Rolling Stones "Gimme Shelter") * アナーキーな谷崎はヨーロッパ文化に満足できず、ヨーロッパが軽蔑していたアメリカの力強さに、一貫して、憧れていたのである。バルトはアメリカを嫌い、日本を好んでいた。日本において、同性愛は美学的にのみ許可され、ときとして、賛美さえされる。同性愛は少女漫画の重要なテーマの一つであるが、書き手が場面設定をヨーロッパ、特にフランスに求めるのは、「フランスでは、同性愛者は自分の生き方を主張したければ、美しくかつ若くなければならない」(ディディエ・エリボン『ミシェル・フーコー伝』)からである。サルトルやフーコーの実行した知識人の規範はヴォルテール、すなわち啓蒙主義的百科全書派、あるいは政治的散文家である。ヴォルテールはイギリスに好感をよせ、世俗的だった。バルトは美学者であり、彼の「愛」は世俗を離れた美学的なものにすぎない。しかし、愛は生の様式を積極的に変更し、創造する力である。サディズムが美学的・文学的であるとすれば、マゾヒズムは法的・政治的である。マゾヒストであることとは生成過程にあることである。フーコーは、『同性愛と生存の美学』において、「私が思うに、ここで重要な問題は、禁止なしの文化は可能なのかとか、あるいは望ましくさえあるのかということよりも、ある社会がその内部で機能している当のシステムが、個人にそのシステムを変える自由を残しているかどうかだ、という気がします」と述べている。この「自由」を残すには、制度以上に、法を尊重しなければならないのである。日本にはこの「自由」はない。フーコーが日本を好まなかったのも当然であろう。日本では、生きている間は、父は強くないが、死ぬと強くなる。父ではなく、先祖が強い。先祖が強いのは、彼らが死者であり、何も語らないからである。語らないがゆえに、その代理人と称するものたちの内部では、彼らはいかなることも承認する。志賀直哉は、『和解』において、墓の前で、祖母に会いにいったらいいかどうかを死んだ祖父と相談している。コミュニケーションを嫌悪するなら、その行き着くところは死しかない。志賀の「調和的気分」は集合的無意識に言い換えられるが、集合的無意識とはコミュニケーションの拒絶が欲した祖先信仰的幻想にすぎない。祖先信仰という基礎づけは、むしろ、トーテミズムが要求している。 谷崎は、『大衆文学の流行について』において、私小説というトーテミズム的美学を次のように批判している。 もし告白小説や心境小説を以て高級と言うならば、(略)そういうものは決して小説の本流ではないと私は考える。小説というものは、矢張り徳川時代のように大衆を相手にし、結構あり、布局ある物語であるべきが本来だと思う。そうして実はその方が、多くの場合、いわゆる高級物よりも技巧の鍛練を要し、何等の用意も経験もないものがオイソレと書くことは出来ないのである。 谷崎は私小説を擁護する芥川と「『話』のない小説」論争を展開する。この論争に関してはすでに数多くの論考が提出されているが、「筋」ではなく、両者がそれを説明するのに用いた比喩をその「鍵」にしている考察はあまりない。谷崎は、『饒舌録』において、「筋の面白さは、云い換えれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさである。此れに芸術的価値がないとは云えない」と言っている。だが、われわれは、谷崎の作品を読んで、筋にとらわれるだけではない。『瘋癲老人日記』の片仮名と漢字の混合文や『卍』の関西弁などそこで用いられた技術も魅力である。谷崎の構成力は法体系の構築を意味しているが、彼は作品を「建築」として理解している。 マルクスも、『経済学批判』の「序言」において、「上部構造」=「下部構造」に関する説明を建築の比喩を使っているが、この符合は決して偶然ではない。と言うのも、建築の擁護はマルクスの一連のヘーゲル転倒の企てに属するからである。ヘーゲルは、『美学』の中で、芸術は建築から始まって彫刻、絵画、音楽と詩に至る発展を遂げ、詩が最上位の芸術であって、建築は古代の自然宗教の時代の「象徴的芸術」を代表すると語っている。建築物と土台の関係が素朴ではないように、マルクスの「上部構造」と「下部構造」も複雑にからみあっている。 ジョージ・スタイナーはマルクス主義を唯一神教回復の運動と定義したが、これは不正確である。マルクス主義はヘブライズムとヘレニズムの融合を目指したヘーゲル哲学を土台にしたパロディである。ヘーゲルは『精神現象学』を演繹的推論の過程をたどったと主張しているけれども、いささか直観に頼って書いているのではないかと思えてしまう。「哲学の各部分はそれ自体、全体としての哲学であり、完全な円を描く。かくして哲学全体は、いくつもの円を含んだ円になぞらえる」(ヘーゲル『大論理学』)。こう主張するヘーゲルの著作の論理学はだまし絵のようだ。ヘーゲルは「精神」という父に固執したが、マルクス主義は、逆に、父の不在の時代の理論である。神なき世界というニヒリズムの下で、価値を創造する概念を創出しなければならない。それが「プロレタリアート独裁」である。プロレタリアート独裁はヘーゲルに対する最大の転倒の一つであろう。プロレタリアート独裁にはキリスト教だけでなく、プラトン主義とアリストテレス主義の完全なる融合と転倒がある。プラトンの哲人政治をアリストテレスが重視した正義を重んじ、友愛によってつながれたイエスが幸いだと言った貧しき存在が実現する。 プロレタリアート独裁は「主人と奴隷」の完全なパロディである。「一方の形態は自立的意識であって自分だけでの存在を本質としており、他方の形態は非自立的意識であって生命または他者に対する存在を本質としている。前者は主人であり、後者は奴隷である」(『精神現象学』)。生きることに全力をかけている二つの自己は遭遇すると、互いに相手を世界を獲得するための邪魔者と見なし、自分を「承認」するように相手に要求する。お互いに一歩も譲らない。ここで生死をかけた闘争が始まる。死ぬよりは屈服するほうがましだと思ったほうの自己が奴隷になる。「承認」を手にいれた奴隷は、もはや一つの自己ではなく、道具的存在である。主人に服従しながら、奴隷は主体性と自分の利益の幅を広げていく。働かされる中、奴隷は、自分が生産したものに自己が投影されていることを発見し、尊厳を回復する。主人の所有物であったとしても、奴隷の周辺にある世界は奴隷自身が生産したものである。従って、それは奴隷の世界なのだ。主人は奴隷に依存し始めて「承認」された存在たりうる。主人はこの状況から自力で脱出することができなくなる。しかし、奴隷は学び、独立する存在に近づいていく。奴隷は、そのため、アキレウスであってはならず、オデュッセウスでなければならない。キルケーやカリプソの申し出を断り、ペネロペイアを選ぶ。オデュッセウスはアキレウスの最も反対の性格を持っている。前者は策略、交渉の名手、後者は清廉潔白である。死後の世界の英雄よりも、生の世界の奴隷のほうがましだ。 プロレタリアートとは何か、ブルジョアとは何かという問いはマルクス主義的ではない。マルクス主義は解釈の哲学ではない。変革の哲学である。そこには暗いシニシズムがなく、明るいドグマだけがある。「人は私に語について云々するが、問題なのは語ではなく、精神の持続なのだ。この語の外皮がはがれ落ちた場合、魂がそれにかかわらぬなどと想像してはならぬ。精神のかたわらには、生があり、人間存在があって、精神は、数多くの紐によって人間存在と結ばれながら、人間存在の円のなかをめぐるのである……」(アントナン・アルトー『或る地獄日記の断片』)。 もっとも、ヘーゲルとマルクスの関係もそんなにわかりやすいものではない。両者の弁証法とも一つの作品だけではなく、全著作を通じて働くものであり、その上、読者との関係も考慮しなければならない。分析対象に対するマゾヒスト的姿勢のため、マルクスの主要な著作はほとんどが未完である。草稿のまま残された断片をエンゲルスを含む編者が読んで、構築して発表されている。マルクスの弁証法はこのように働いている。ヘーゲルの場合、ほかの作品に関する言及や引用は、勘違いが多い通り、自分の記憶に頼っているし、いくつかの著作は聴講していた人がとっていたノートをもとにして編まれている。ヘーゲルの弁証法はそのように機能している。マルクスの弁証法は、ヘーゲルに比べると、複雑で他者の視線を前提にしている。マルクスの作品は開放的だ。誰もがマルクスの作品を自由に読むことが許されている。エンゲルスに代わって、彼を参考にしつつ、『資本論』第二巻・第三巻を再構築することもかまわない。ヘーゲルの体系も、ある意味では、開かれている。だが、それは、勘違いは素晴らしくとも、外部を自分の体系の内部にとりいれるために開けられたネズミとりの窓にすぎない。ヘーゲルにしても、マルクスにしても、意識してこの状態を狙ったものではなかったろう。意識していないからこそ、この両者の差異が真に重要である。ヘーゲルとマルクスの読む行為の差異が弁証法の違いに反映している。読む動詞はヘーゲルでは過去形であり、マルクスにおいては現在形である。前者の思想はすでにつくられたものであって、他方、後者の思想はいまだくられておらず、これからつくられていくものであると同時に、永久にできないであろうものだ。 女や同性愛者のマゾヒストは背理であり、原理上は存在しえない。マゾヒズムは唯一神教のパロディであり、関係によって規定される。と同時に、マゾヒズムはヘブライズムとヘレニズムの精神の融合を完成したヘーゲルの哲学のパロディであって、「彼」という代名詞を使うヘーゲル弁証法の射精的絶頂感の形態に対する批判であるから、射精の論理・倫理が問題になる。サディストではない女に対して男のマゾヒストが生成して、その関係をマゾヒズムと呼べるのであり、それ以外は、性転換した場合も含めて、すべてサディズムの関係である。 マゾヒズム的関係の成立する可能性は極めて限定されている。サディズムは多神教的であるため、さまざまな関係が成り立ち得る。谷崎の受動性は究極且つ唯一の能動性である。人はどんなに能動的にふるまっていると思っていても、諸事情によって制限されている以上、受動的である。受動性を極限化するときに、真の能動性に到達する。マゾヒストだけが真に能動的たり得る。サディストは受動性の迷宮に迷いこんでいることに憤り、それを破壊しようとする。一方、マゾヒストは迷宮を、受動性を楽しむ。この楽しむという意欲において能動的であり、人間にはこの能動性だけが残されている。マゾヒズムは、受動性のみを意欲するという点で、能動的である。 谷崎の小説の構成からも、小説技法が造型芸術的であることは強調される。「建築」では精神的深さではなく、実用性が重要である。「建築」の美は審美的ではありえない。「構造的美観は云い換えれば建築的美観である。従ってその美を恣にする為めには相当に大きな空間を要し、展開を要する」。「建築」の要求する「相当に大きな空間」や「展開」は、われわれの日常生活に根ざしていなければならない。「建築」の美は見ることではなく、生きることが必要とするものである。「建築的美観」をそなえた作品は「いわゆる高級物よりも技巧の鍛練を要し、何等の用意も経験もないものがオイソレと書くことは出来ない」。 谷崎は、『饒舌録』において、日本文学の構成力の欠如を次のように言っている。 (略)筋の面白さを除外するのは、小説と云う形式が持つ特権を捨ててしまうのである。そうして日本の小説に最も欠けているところは、此の構成する力、いろいろ入り組んだ話の筋を幾何学的に組み立てる才能、に在ると思う。だから此の問題を特に此処に持ち出したのだが、一体日本人は文学に限らず、何事に就いても、此の方面の能力が乏しいのではなかろうか。そんな能力は乏しくっても差支えない、東洋には東洋流の文学がある、と云ってしまえばそれ迄だが、それなら小説と云う形式を択ぶのはおかしい。それに同じ東洋でも、支那人は日本人に比べて案外構成の力があると思う。(少くとも文学に於いては。)此れは支那の小説や物語類を読んでみれば誰でも左様に感ずるであろう。日本にも昔から筋の面白い小説がないことはないが、少し長いものや変ったものは大概支那のを模倣したもので、而も本家のに比べると土台がアヤフヤて、歪んだり曲ったりしている。 一方、芥川は、『文芸的な、余りに文芸的な』において、「話」を「絵画」の比喩を用いて、次のように説明している。 「話」らしい話のない小説は勿論唯身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遥かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思っていない。が、若し「純粋な」と云う点から見れば、──通俗的興味のないと云う点から見れば、最も純粋な小説である。もう一度画を例に引けば、デッサンのない画は成り立たない。(カンディンスキイの「即興」などと題する数枚の画は例外である。)しかしデッサンよりも色彩に生命を託した画は成り立っている。幸いにも日本へ渡って来た何枚かのセザンヌの画は明らかにこの事実を証明するのであろう。僕はこう云う画に近い小説に興味を持っているのである。 見る芸術である絵画には実用性などよりも、精神的深さが要求される。谷崎は、そんなことよりも、手につかむことやそこで生きることを考える。精神的深さの欠如のために、多くの文芸批評家にとって、谷崎は扱いにくい作家である。佐藤春夫や小林秀雄、中村光夫らフランス的・ドイツ的な思考になれている文学者は谷崎に「思想」がないと断言している。谷崎が抽象的問題に言及することを拒否したのは、具体的で経験的な出来事の中で生成するものから帰納的に思考していたからである。抽象的問題から現実を考えるとき、一つの中心点を設定してしまう。彼らが、通常、標的にする精神的深さ、すなわち観念や理念を谷崎は拒絶している。谷崎がアングロ・サクソン的思考に好意的なのは、スカトローグであることからも強調される。ジョナサン・スウィフトは、『ガリヴァー旅行記』において、アナルやスカトロについて言及している。痔に悩んだ夏目漱石もスウィフトが好きだったし、『明暗』でも、肛門と腸に関する記述から始まっているから、谷崎はアングロ・サクソン的思考に見られる経済活動と哲学の関連を理解している。 谷崎は、『小さな王国』において、次のような経済活動を描いている。 やがて沼倉は一つの法律を設けて、両親から小遣い銭を貰った者は、総べて其の金を物品に換えて市場へ運ばなければいけないと云う命令を発した。そうした巳むを得ない日用品を貰う外には、大統領の発行にかかる紙幣以外の金銭を、絶対に使用させない事に極めた。こうなると自然、家庭の豊かな子供たちはいつも売り方に回ったが、買い取った者は再びその物品を転売するので、次第に沼倉共和国の人民の富は、平均されて行った。貧乏な家の子供でも、沼倉共和国の紙幣さえ持って居れば、小遣いには不自由しなかった。 ここで描かれている経済活動は、部分的に、地域通過の先駆的考察であり、その意味では大いに読解される必要がある。谷崎は、まず、紙幣に着目し、物々交換ではなく、紙幣による交換を導入する。紙幣はその共同体の権威の信用を反映する。市場の予定調和的均衡は資本の流動性や投機の円滑さによって達成される。資本は、転売によって、自己増殖を繰り返していく。ここではジョン・メイナード・ケインズの「投機的動機」が見落とされていることは注意すべきである。そのため、谷崎自身はラスベガス的資本主義者と見なせるが、この共和国は素朴な社会主義体制とならざるを得ない。沼倉共和国の経済活動はその世界の外から運ばれてくるものに依存している。経済活動が活発になるには、その外界の存在が前提なる。外界から流入する資本が滞ったり、紙幣が過剰になると、このシステムは暗い木曜日を迎え、崩壊する。沼倉共和国はインフレを招いている。信用が崩れてシステムが壊れるのではなく、その反対である。マゾヒストはこの崩壊を承知している。「われわれは自由であっても、しかし不幸であることがありうることを認めなければならない。自由とは、よいことばかりを、あるいは災いの少しもないことを意味するものではない。自由であることは、ある場合には、飢える自由、高価な過ちを犯す自由、または命がけの危険を冒す自由を確かに意味するかもしれない」(フリードリヒ・フォン・ハイエク『自由の条件』)。マゾヒストはこの「自由」に快楽を見出す。 柄谷行人は、『日本近代文学の起源』において、谷崎の作品について次のように述べている。 谷崎の小説は、現代を舞台にしている場合でも、基本的にそのような「モノガタリ」の配置を反復している。『痴人の愛』や『卍』を例にとると、主人公は女に対して日常的秩序において上位にあるが、この日常的時間はしだいに澱み腐敗しはじめる。それが活性化されるためには、日常的には下層にある女を“貴種”として転倒させ、彼女の放縦と混沌の中に屈服し没入する祝祭が不可欠である。こう書けば、谷崎の小説が反復される祭式にほかならないことがわかるだろう。このことは、彼が実際に日本の物語文学に傾倒した事実よりも、重要である。もっと根本的に、彼は「モノガタリ」作家なのだ。 谷崎の小説には、確かに、神話的儀式のパロディの要素はあるが、それを「祝祭」としてとらえることはできない。トーテミズムに属する「祝祭」は契約とは別次元にあるが、そこでは契約が重要になっている。文化人類学的タームよりも、柄谷のよく用いる経済学として谷崎の作品を把握するほうがよい。谷崎の作品において、主人公たちは契約を結び、信用を重ね、資本が蓄積したところで、突如、決済期が訪れ、恐慌を迎える。その世界では女が貨幣である。 こうした思考をする谷崎の日本文化論も独特である。日本橋生まれの江戸っ子谷崎は、関東大震災の後、関西に移住する。谷崎が阪神間へ移住、厳密には亡命したのは、彼の「郷愁」を喚起するものがそこにはまだあるからである。谷崎は、関西も変容していくにつれて、『陰叡礼讃』を頂点にまた伝統的日本から距離をとっていく。谷崎は、過去を礼讃する際に、必ず「郷愁」にとらわれている。彼は日本に回帰したのではなく、到達している。 谷崎は、日本好きの外国人のように、フジヤマ・ゲイシャ・サムライによって代表される日本を求める。「自分は外人が廣重の絵を珍重するような意味で、舊き日本をエキゾティズムとして愛」し、「外人の遊覧客と同じような気分をもって奈良や京都に遊」んだ(『東京をおもう』)。谷崎は西洋人の目で日本を見ている。谷崎にとって、日本は、西洋と同様に、ファッションにすぎない。谷崎は欧米に対してコンプレックスを抱いかない。欧米コンプレックスにとらわれたものは日本に対する軽蔑がある。その後、彼らは、反動として、日本回帰する。日本回帰論者は、三島や川端が告げているように、ロマン主義者であり、彼らの作品が西洋で読まれるのは、そのロマン主義的傾向が彼らの持つオリエンタリズムに訴えるからである。谷崎の語る日本はわび・さびといった神秘主義に彩られた観念ではなく、YMOが演じてみせたように、中国と日本が混同され、フジヤマ・ゲイシャ・サムライによって表わされたフィクションである。もっとも、正直言って、YMOのデビュー・アルバムに収められた曲を初めて聴いたとき、『ポップコーン』のヒット曲を放ったホット・バターの新曲だと思ったものである。谷崎は、フィクションに対して憤りを覚えるのではなく、そのままにそれを好む。 「私の知っている限りでは、皮膚の滑かさ、肌理の細かさは支那婦人を以て第一とする」という『恋愛及び色情』の記述を根拠に、谷崎が日本回帰したというのは早計である。フロイトが精神的危機を克服するために、子供のころに遡行し、自己分析を行ったように、精神的に危うい状態をのりきる手段として、子供の時代に戻っただけである。もちろん、それは素朴な過去の美化ではない。物象化とは視覚によってほかの知覚作用を排除することである。伝統への回帰は、しばしば、自己の連続性を現在と過去だけでなく、自分自身と共同体との連続性にまで拡大する。つまり、彼らはサディストである。サディストはこういう不連続に我慢がならない。だが、マゾヒストはそこにも快感を見出す。谷崎の『疎開日記』は安吾の『日本文化私観』に似た見解が登場してくる。『陰叡礼讃』は谷崎が自分自身を外国人として日本を礼讃した書物である。それは、結果として、日本人が日本人として日本を礼讃するナショナリズムに対する批判なのだ。谷崎が、戦争の始まったころに、日本について考え始めたのは、それによって、失われるものへの郷愁にほかならない。 谷崎は関東大震災が起きたことを聞くと、「『しめた、これで東京がよくなるぞ』という歓喜が湧いて来」たと次のように思ったと『東京をおもう』に記している。 井然たる街路と、ピカピカした新築の舗道と、自動車の洪水と、幾何学的な美観をもって層々累々とそそり立つブロックと、その間を縫う高架線、地下線、路面の電車と、一大不夜城の夜の賑わいと、巴里や紐育にあるような娯楽機関と。そして、その時こそは東京の市民は純欧米風の生活をするようになり、男も女も、若い人達は皆洋服を着るのである。 谷崎の思い描く日本は『ブレード・ランナー』に登場する日本である。それは江戸とハイテクのキッチュに混濁した世界にほかならない。谷崎の快感は郷愁を基盤とするが、末梢神経を通じて脳の過程に対象を組みこむことであり、それによって陶酔へと至る。快感は脳をマッサージする。谷崎にはテクノロジーも快感、郷愁の「よろこび」がなければ無意味である。 谷崎の言及する日本はステロ・タイプであるが、あえて紋切節に倒錯的に戯れているわけではない。谷崎にはステロ・タイプはデフォルメだという認識がある。『陰叡礼讃』はデフォルメ礼讃の作品である。デフォルメは真実の世界を誇張化することではない。その逆である。「ちょっとした行動や言葉や冗談の方が、幾万の死者を出した戦闘や大規模な陣立てや都市の包囲よりもむしろ、その人の性格を明らかに示す」のであり、「ちょうど画家が、その人の性格が表われているところの顔や眼の表情から、その人の似姿をとらえて、身体のその他の部分には注意を払わないように、私もまた、大事業や戦闘のことは他の人たちにまかせて、精神の表徴へと向かって行きながら、それらによってそれぞれの人の生涯の像をつくり上げたい」(『プルターク英雄伝』)。谷崎には、リアルなるものはデフォルメの一つの表現・思考技術である。単純なものの中に、人間の原初的なものがひそんでいる。人間の眼の網膜に入った視覚情報は、光と影の境界を強く受けとり、単純な線として認識される。人間は「陰叡」の差異を線として認識する。プリミティヴな洞窟壁画にしても、幼児の絵にしても、線が描かれている。絵画の基本である石膏デッサンには、輪郭線にとらわれずに、「陰叡」の段階的な階調として対象を見る訓練が含まれている。谷崎が芥川との論争で絵画ではなく、建築を比喩に使った理由には、こうした点もある。「すべての経験は建造されるべきアーチである」(ヘンリー・アダムズ『ヘンリー・アダムズの教育』)。デフォルメという虚はルールを共有していなければ理解できない。それはルールの顕在化を意味する。 ここでわれわれは興味深いステロ・タイプの集会を紹介しよう。ロン・ローゼンバウムの『アメリカを癒す”第二のイエス”プレスリー』によると、アメリカを中心に世界中にエルヴィス・プレスリー教信者がいる。エルヴィスはファンに自らへの信仰を求めたわけではないし、教えを説いたこともない。映画に出演し、コンサートを開き、曲を発表しただけである。教団があるわけでも、聖職者がいるわけでもない。ただ信者だけがいるが、自分たちをエルヴィス教の信者だなどと定義することもない。正確には、「エルヴィス主義者」と呼ぶべきかもしれない。エルヴィスが、イエスになぞらえるのを拒否して、「キングは一人しかいない」と言ったこともあって、信者は彼を「キング」と信仰する。八月一六日の命日「デス・ナイト」の前から一週間は「デス・ウイーク」と呼ばれ、ミシシッピとテネシーのエルヴィス崇拝圏である「エルヴィス・カントリー」に世界中から巡礼者が何十万人も訪れる。巡礼者は手作りのオーナメントや土産物、花、人形、縫いぐるみを墓にそなえる。死後数年は、デス・ナイトに、せいぜい二百人のエルヴィス・マニアが集まり、キャンドルを灯す程度にすぎない。ポール・サイモンが、一九八六年に、『グレースランド』を発表して以来、グレースランドは宗教的意味あいを帯びるようになる。音楽は音楽によって回帰するというわけだ。今では、一五日の夜九時をすぎると、あの日を迎える深夜に向けて、すべての人がキャンドルを手に、「瞑想の庭」に達するころには涙があふれだし、墓に向かって収束する「キャンドルライト」をクライマックスにして、聖なる悲嘆にくれる。参加者はキングの魂と宗教的ヒーリングを体験する。これは死者賛美ではない。エルヴィスは贖罪を求める信仰の対象である。 デス・ウイークのカーニバルは一月八日の誕生日の祝賀行事よりも盛大である。その間、エルヴィス・カントリーではさまざまな催し物が開催される。同じ時期、エルヴィスの娘リサ・マリー率いるエルヴィス・プレスリー・エンタープライズは「エルヴィス・ウイーク」と命名し、軽快なコンサートを何回か開くが、信者は、当然、これを無視する。このデス・ウイークの組織者はいない。エルヴィスに関するアカデミックな国際会議、晩年のエルヴィスの世話をしていた看護婦を囲むチャリティー・ショーを兼ねたディナー、エルヴィス・グッズのバザーなど数多く行われる儀式の中で最も重要なのは、規模は大小問わず無数の物真似大会である。 参加者は、老若男女を問わず、プロ・アマあわせて膨大な数にのぼる。控え目で、静か、柔らかに話す紳士・淑女の物真似芸人たちは、白のジャンプ・スーツを着て、もみあげをのばし、リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストゥラはかく語りき』をバックにステージに登場するあのエルヴィスのように、『心の痛手』や『ラスベガス万歳』を歌う。『ハートブレイク・ホテル』や『ハウンドドッグ』を歌おうものなら、間違いなく、ブーイングの嵐にあう。エルヴィスのカルトの魂をとらえるのは晩年の老けて、肥満の汗っかき、薬漬け、苦悩のため自暴自棄になったエルヴィスだ。決して、金髪を黒く染めてリーゼントにセットし、黒人のように歌い、腰をゆらす、切手にもなった若きロックンローラーの姿を選ばない。グッチ裕三のエルヴィスの物真似は、その意味で、正統派である。ボブ・グリーンが一九五六年の彼をその頂点と主張しているように、エルヴィスがポップ・ミュージック史において意義があるのは、初期のロックンロールのナンバーだが、エルヴィス・カルトの魂をとらえているのは、『アンチェインド・メロディー』や『ユー・ゲイブ・ミー・ア・マウンテン』などのセンチメンタルで、甘ったるく、ソープ・オペラ的ですらあるベガス・ソウルである。ところが、これらは、人生というものを十分に味わったものには、魂にしみいり、心を癒す。映画の面でも、エルヴィスのハワイ映画三部作『ブルー・ハワイ』・『ガール! ガール! ガール!』・『ハワイアン・パラダイス』はエルヴィス・カルトにはたまらない傑作だ。映画の場合、音楽とは違い、出演作品のほとんどがくだらないという評価が一般的である。信者のキングと一般のエルヴィスの像はまるで正反対だとしても、前者が狂信的であることを意味しない。 エルヴィスへの愛により物真似をするが、カルトの魂をとらえるのは愛よりも、苦悩である。物真似による苦悩の実感は日本の太宰治や尾崎豊などの一般のマニアと違う点である。グレースランドは、全面的に、観光客に公開され、年間約七五万人が訪れる。ただし「デス・ルーム」はキングが死んだときのままにされており、誰も入ることだけでなく、見ることすら遺族により禁止されている。トム・パーカー大佐お得意のエルヴィスの神話化を狙ったものだろう。けれども、エルヴィス・カルトはエルヴィス生存説を信じていない。信者はキングを聖人化することも、堕ちた偶像とも見なさない。真の苦悩、人々には遠く及ばないあまりに過酷な苦悩の体現者である。エルヴィスが神秘主義に走ったのも、なぜ無名のトラック運転手が聖人や預言者のような名誉を手に入れられたのかという問いである。考えても答えがでずに、ただ苦悩だけが増えていく。十数台のピンクのキャデラックや何十枚のゴールド・ディスクがあっても、苦悩は癒されることはない。苦悩を埋めるために、薬だけでなく、大量のピーナッツ・バターやベーコン、スクランブル・エッグを口に運ぶ。物真似大会において、いつもはまったく見も知らない別々の立場、それどころか敵対関係にさえあるすべてのものが共生感を実感する。共有しているものは苦悩の記憶である。思想や信条、地縁、血縁からも切り離され、単独的な個人だけが見出し得るものだ。個人は直接的にではなく、媒介的に関係している。キングが各個人を結びつけるのである。物真似において、キング−物真似芸人−人々という関係が形成される。物真似芸人は自分がエルヴィスでないことを自覚している。エルヴィスに似ていることが物真似の前提なのではない。エルヴィスは唯一であり、誰もがキングに適わないのだ。エルヴィスの物真似はスピリチュアルなものである。物真似芸人は、人々の反応によって、キングの苦悩を実感する。ブーイングを浴びれば、キングから遠く離れてしまう。エルヴィスはブーイングを浴びたことはない。キングの苦悩はブーイングに由来するものではない。芸人においては、キング−人々−芸人という関係が成り立つ。キングの苦悩を実感することによって自らの苦悩を癒す。愛と苦悩がエルヴィス教の根幹である。人々は、物真似をしている芸人を通じて、キングと魂の交流を行い、魂が癒され、芸人たちもキングになりきることにより魂が癒される。あらゆる苦悩を飲みこんでしまう大いなる苦悩は、この物真似によって、人々に体験されるのである。四二年の生涯に渡って苦悩し続けたキングの心の痛手に涙を流す。スキャンダラスな暴露本が何冊でようと、動揺しない。そんなものよりも、カルトにとって、エルヴィスの苦悩が重大な事実である。 晩年のエルヴィスが愛されるのはアメリカが、人々がまさにそうなったからである。人々自身が若く、精悍で、セクシーなロックンローラーから老い、デブ、汗っかきのエルヴィスになったからこそ、その喪失感を埋めるために、キングを求め始める。晩年になればなるほど、エルヴィスのコンサートは終わると、壮快感はなく、どこか寂しさがつきまとうようになっている。自らの没落を認識するようになったとき、キングの苦悩に浸ることにより自らの苦悩を癒すようになる。 映画『グレイスランド(Finding
Graceland)』(一九九八)はまさにそういうテーマで描かれている。エルヴィスは修行も要求しないし、偶像崇拝どころか、物質主義に対しても怠慢なまでに寛大な救世主である。すべては許されている。この驚くべき信仰は宗教のパロディである。通常宗教が禁止するもの一切に寛大であるのに、完全な唯一神教だからだ。これこそが宗教の完全なパロディ、ユーモアなのかもしれない。 Maybe I didn't treat you Quite as good as I should have Maybe I didn't love you Quite as often as I could have Little things I should have said and done I just never took the time You were always on my mind You were always on my mind Tell me, tell me that your sweet love
hasn't died Give me, give me one more chance To keep you satisfied, satisfied Maybe I didn't hold you All those lonely, lonely times And I guess I never told you I'm so happy that you're mine If I make you feel second best Girl, I'm sorry I was blind You were always on my mind You were always on my mind Tell me, tell me that your sweet love
hasn't died Give me, give me one more chance To keep you satisfied, satisfied Little things I should have said and done I just never took the time You were always on my mind You are always on my mind You are always on my mind (Elvis Presley "Always On My Mind") 谷崎のステロ・タイプはこうしたユーモアである。『陰叡礼讃』だけでなく、『私の見た大阪及び大阪人』を同時に読めば、谷崎のユーモアがよりよくわかる。「見た」となっているが、その記述は視覚的なロマン主義的叙述ではない。三島は、『小説家の休暇』において、音楽は「マゾヒスティックなもの」であり、「音がどうしても見えて来ないのだ」から、それには「不安」になると告白しているが、谷崎は、『陰叡礼讃』において、色を「見るもの」である以上に「無言の音楽の作用」と言っている。谷崎の『陰叡礼讃』は、そのタイトルに反して、日本文化を見ること以外から論じた作品である。谷崎が問題にしているのは「対照」である。「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰叡のあや、明暗にあると考える」。 谷崎が関係から考察していることは『陰叡礼讃』の次の見解から明らかである。 けだし日本家の屋根の庇が長いのは、気候風土や、建築材料や、その他いろいろの関係があるのであろう。たとえば煉瓦やガラスやセメントのようなものを使わないところから、横なぐりの風雨を防ぐためには庇を深くする必要があったであろうし、日本人とて暗い部屋より明るい部屋を便利としたに違いないが、是非なくああなったのでもあろう。が、美というものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰叡のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰叡を利用するに至った。事実、日本座敷の美はまったく陰叡の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。西洋人が日本座敷を見てその簡素なのに驚き、唯灰色の壁があるばかりで何の装飾もないという風に感じるのは、彼らとしてはいかさま尤もであるけれども、それは陰叡の謎を解しないからである。 谷崎の日本文化論は近代の超克のイデオローグとまったく違っている。彼らは日本文化を美学的に賞賛するが、谷崎はそれがさまざまな諸条件が要求した世俗的な実用性から発達したものだと主張する。この論理展開を考慮するかぎり、谷崎は、むしろ、マルクス主義的ですらある。後半に、西洋文明の科学的発達を肌の色に求めるという危うい議論がある。東洋人と西洋人には骨格および肌や髪、瞳の色が異なるので、その差異を考慮しないとそれぞれの長所を殺してしまうことになる。これは、もちろん、人種差別のパロディである。「東洋の神秘」とは「かくの如き暗がりが持つ不気味な静かさを指すのであろう」。谷崎の見解はフランスあたりの日本愛好家を当惑させるかもしれない。神秘主義は形式主義の形骸化へのアンチテーゼとして機能する。かの日本愛好者が西洋を超えると思いこんでいる日本文化が審美的なものではなく、たんに「機構風土や、建築材料や、その他いろいろの関係」という実用性によって、生まれた経済的・世俗的なものであるとすれば、西洋文化とさほど違いがないことになる。 谷崎は『陰叡礼讃』を次のように結んでいる。 私にしても今の時勢の有難いことは万々承知しているし、今更何をいったところで、既に日本が西洋文化の線に沿うて歩み出した以上、老人などは置き去りにして勇壮邁進するより外に仕方がないが、でもわれわれの皮膚の色が変らない限り、われわれにだけ課せられた損は永久に背負って行くものと覚悟しなければならぬ。尤も私がこういうことを書いた趣意は、何らかの方面、たとえば文芸芸術等にその損を補う道が残されていはしまいかと思うからである。私は、われわれが既に失いつつある陰叡の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとはいわない、一軒ぐらいそういう家があってもよかろう。まあどういう具合になるか、試しに電灯を消してみることだ。 谷崎はたんに昔をなつかしがっているのではなく、ある観点から見れば、『鍵』は中年の性の問題を、『瘋癲老人日記』は老人の性の問題を扱っているというように、老人問題など世俗的問題を政治的に語っている要素がある。日本が西洋化を目指したことは仕方がないが、それに適応できないマイノリティーを排除している現状に文学も加担しているのは納得できず、谷崎はそれを書こうとしている。谷崎は世俗的な多種多様な差異に生きるマゾヒストだから、選択・排除の原理に敏感であっても、曖昧はない。 谷崎は、『いわゆる痴呆の芸術について』によれば、「知性」を欠いた「不合理や矛盾」を嫌い、「非人間的な残虐性」を「不快」に感じている。彼は義太夫を笑った占領軍兵士の意見に同意する。義太夫を代表としたそういった「馬鹿げた」芸術が外国人に見られ、日本人自体も誤解されてしまうことに危惧を覚えている。谷崎が日本の伝統芸能を好むのは、それがデカダンスだからであり、それを「世界的」にして再生することや「年歯も行かない少年少女」を学校の教師が引率して「見学に行く」ことにも否定的である。三浦雅士は、『舞踏はなぜ人を酔わせるか』において、「酔うということでいえば、日本の舞踏のほうがはるかに人を酔わせるということになるだろう。激しくも素早くもない。むしろ、けたるくなるほどにゆるやかな動きだが、ひとたび巻き込まれると、その持続の力に人はあらがうことができない。こうして人は、陶酔の海を、ゆったりと漂いはじめるのである」と書き、さらに「これは比喩ではない。実際に酔ってしまうのである。感覚が麻痺したようになってしまう」と断っている。しかし、谷崎はこうした見方には賛成しない。デカダンスであるという点においてのみ日本文化を礼讃するからである。 谷崎は、関西移住以降、社交をしなくなる。晩年に至っては、他人の作品には目もくれず、英語を忘れないようにと、自分の作品の英訳を読んでいる。これは自然な姿勢である。われわれ自身も二五歳くらいから、古典以外には興味がなくなると同時に、人と会うことが少なくなり、二七歳すぎてからは、電話をすることもめったになくなって、三〇歳をまわってからは、手紙もほとんど書かなくなっている。これがマゾヒスト的自我の真の姿である。「現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激に沸き立っても、やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまう時代である」(ゼーレン・キルケゴール『現代の批判』)。 * 谷崎の小説は、終わりに近づくにつれ、作品自体に棲みついていた微生物によって、分解されていく。読み終わった瞬間から発酵・分解が始まる。谷崎を読む際に、この隠れた微生物たちを考慮しなければならない。構築性の強い作品に無数の菌類や微生物が寄生している世界を描くことを通じて、谷崎はこの寄生生物の視点からの考察を勧めている。 寄生生物がいなければ、動物も植物も生きられない。「生とは死を組みこんで成立している。菌と植物、あるいは菌と動物の共生というより、それは生と死の共生でもある「(森毅『キノコの不思議』)。寄生生物は分解と同時に生産と消費も行っているのだ。もしくは、生体内で生ずる化学反応の触媒となる酵素としての生き方だってよいだろう。マゾヒストは、菌類のように、微生物のように、酵素のように、分解者・還元者として生きる。毒があったとしても、それを避けるのではなく、生命体にとって有用なものへと変換することこそ望ましい。ビタミンB12は人間の体内で血液をつくるのに必須な栄養素であるけれども、動物も植物も合成できない。微生物だけが合成できる。アミノ酸や遺伝子の塩基を構成する窒素は大気中に豊富にある。しかし、窒素は三重結合を持つ安定した物質なので、これをアンモニアに変換しなければ、植物はアミノ酸を合成できない。空気中の窒素を利用可能なアンモニアにする「窒素固定」を行っているのも微生物である。動物は、その結果として合成されたアミノ酸を摂取して、タンパク質や核酸をつくっている。「生育環境にきわめて順応性が高く、生きるためには必要とあらば超能力を発揮する微生物は、この広い地球のすみずみに、びっしりと生育している(略)。そこでは驚くべき種類と数の微生物が、この地球の浄化と維持のために寸分の休みもなく発酵作用を営んでいる」(小泉武夫『発酵』)。微生物はいかなるところにも棲んでいる。もっと微生物の思考、微生物の態度を持つ「必要」がある。思考の座標を変えるこの実践的態度は既存の意味を分解・無化する転換の悦楽の政治学・経済学、寄生虫・菌類・微生物・酵素の政治学・経済学、すなわちユーモアの政治学・経済学を創出する。 She'll always be there trying to grab a
hold She thought she knew me, but she didn't
know That I was sad and wanted her to go Parasite lady Parasite eyes Parasite lady No need to cry I didn't wanna
have to get away I told her things I didn't want to say I need her and I hope she'll understand Parasite lady Parasite eyes Parasite lady No need to cry (Kiss “Parasite”) マゾヒズムは笑えるが、サディズムはまったく笑えない。この笑いの要素こそがユーモアであり、自由である。ユーモアの弁証法と言っても、それは二項対立ではない。一般的に、二項対立は見せかけの問題である。決定論を避けるために、ある一定期間だけ、とられる構えだ。選択するほうは、その枠組みが顕在化した段階で、すでに決まっている。二分法の最も極端な例は魔女狩りである。二者択一は苦悩ではなく、躊躇である。 マゾヒズムに焦点を合わせ、谷崎をだらだらと読むことは古びたテーマどころか、重要で喚起あふれる意義を持っていることは明らかである。谷崎は、『ふるさと』において、「私は泣き虫で臆病な子供だったので、喧嘩したことは殆どないが、十一、二歳の頃、同年ぐらいの女の子が二人で楽しく遊んでいる中へ邪魔に這入って、何か意地悪をしたことがあるのを、ふと思い出した。女の子が口惜しがって、私を睨みつけながら悪口をいって逃げて行った。多分それは私の『性のめざめ』の行為だったのだろう」と回想している。性はサディズムとして最初に出現してくることが多いが、マゾヒズムはそのサディズム克服である。マゾヒズムは性を美学的ではなく、法的・政治的・経済的にする。それは性をとりこむ生の生成過程における一つの目標である。生の充実感により恍惚とした表情で、谷崎は、トラヤヌス帝の前に出た小プリニウスのごとく、「あなたによって導かれ、あなたに服従する」とスパルタの教育官のような女に跪いて誓うのである。ドゥホボール教徒ばりの谷崎のマゾヒズムには復讐や怨念といったドロドロとした情念がまったくなく、爽快な快楽に満ちている。それは、『谷崎文学と肯定の欲望』で河野多恵子が主張した「肯定の欲望」にとどまらない。「Positive」という概念は、オーギュスト・コントの「実証主義」やヘーゲル哲学を「消極哲学」と批判したフリードリヒ・シェリングの「積極哲学」、カール・ポパーとテオドール・W・アドルノの「積極−消極」論争などが思い起こされる。谷崎はそれらをすべて否定しない。大いに肯定する。これこそ真のマゾヒストの姿である。 肯定的なものと否定的なものや男性的なものと女性的なもの、西洋的なものと東洋的なもの、伝統的なものと現代的なもの、聖と俗、荘重と諧謔、饒舌と寡黙、ヘレニズムとヘブライズム、アテナイ的なものとスパルタ的なもののようなあらゆる対立すると思われている関係を谷崎は呼びよせる。肯定と否定を超える大いなる肯定の下に達成されるこの止揚は分解・発酵という生成を生み出す。このプロセスでは破壊と創造が同時に進行する。谷崎を読む意義は、この大いなる肯定の弁証法を体験することにほかならない。 〈了〉 |